04年5月19日
HP管理人・萩野谷敏明

5月14日公判レポート

この日は当初、斎藤清巡査部長の証人尋問とされていたが、3月18日の原告・被告・裁判所の合議により、司法解剖に立ち会ったとされているもう一人の警察官・井上二政巡査部長(当時)の証人尋問に変更になった。


被告県警側からの尋問は、既に同人から提出されている陳述書の内容に沿うものであった。要点は次の通り。詳細説明は陳述書全文(下記)をもって替えたいと思います。

  • 自分(井上巡査部長)は当時、和田町交番の巡査で、命じられて横浜市民病院での検視立会い、保土ヶ谷署での待機、司法解剖の立会いを行った。

  • 司法解剖は確かにしている。

  • 解剖に際し、ジープの事故状況は伊藤医師に説明している。「フロントガラスのひび割れ」は斎藤巡査部長が伊藤医師に説明していた。

  • 未明のパトカー出動のことは、この日は知らなかった。
原告側からの質疑で判明したことのうち、ポイントは以下の通りである。
  • 陳述書は、証人が県代理人に口述し、それを県代理人がまとめ、証人が認知したものである。

  • 証人尋問にあたっては、証人は事前に県代理人及び斎藤清元巡査部長と打ち合せを数回している。ただし、伊藤医師とはしていない。

  • 証人尋問前に参照した書類は、解剖立会報告書添付の「心臓の写真3枚」や既出の調書・報告書であり、自身が作成したメモ・書類、交番の日誌は見ていない。

  • 変死事件の取扱いや解剖への立会いは数多いが、自分が主務担当になったことはない。

  • 伊藤医師による解剖立会いは、後にも先にも保土ヶ谷事件のときのみである。

  • 横浜犯罪研究所に解剖立会いに行くよう指示したのは「直属の上司」(但し、陳述書では「本署幹部」)だが名前は覚えていない。

  • 久保氏の解剖前に横浜犯罪研究所に来ていたという「他署」が、どこの署かは覚えていない。

  • 解剖中の撮影写真について、全身を写した写真がなく、「心臓の写真3枚だけというのはおかしくないか」という質問に対して、「自分は担当ではないから、わからない」と答えている。

  • 解剖が終了した時間は「わからない」。

  • 伊藤医師が解剖中に録音テープを取っていたかは覚えていない。

  • 伊藤医師が臓器の重量を測っているところ、それを鉛筆で記録しているメモを取っているところは見ていない。(HP管理人注:この部分、後刻、尋問スクリプトで確認をした。)

  • 解剖後に報告をした相手である「上司」(陳述書では「地域課の本署幹部」)の顔は覚えているが名前は覚えていない。

  • 地検から調書を取られているが、監察官室からは調書を取られていない。

  • また、裁判官との間で、「解剖への立会いを多くしているということですが、これまでの経験からみて、久保さんの解剖に要した時間は通常よりも長かったかですか」という質問に対し、「伊藤医師は細かく丁寧にやっていましたので、通常より長い部類に入ると思う」という回答があった。


横浜地方裁判所 第9民事部合議係 御中
平成16年3月25日

神奈川県警察本部
警部補 井上二政

私は、平成8年9月から平成13年9月まで保土ヶ谷警察署に勤務しておりました。 平成9年7月19日に三ッ沢上町交差点付近の路上に駐車していたジープの車内で発見された久保幹郎氏に係る変死事件については、私が保土ヶ谷署地域第一課の勤務員として取り扱っており、司法解剖にも立ち会っておりますので、当時の取り扱い状況について、次のとおり陳述します。

1. 勤務の略歴等
(個人情報のため省略)

2. 本件変死事件の認知について
 まず、地域課の勤務体系ですが、地域警察官は、署の事件当直とは別に、常に三交代制で勤務しており、当直日は午前8時30分から、翌日の午前8時30分まで勤務しております。
 本件変死事件を取り扱った平成9年7月19日は当直日で、私は午前8時30分から勤務に服し、和田町交番において一人で勤務していました。
 午前11時40分ころ、和田町交番において在所勤務中、本署幹部である濱川警部補から「三ッ沢上町交差点付近に駐車中の車の中で倒れていた男性が病院で死亡したので、取り扱うように」という電話があり、本件変死事件の取り扱いを指示されました。
 本件変死事件の現場である三ッ沢上町交差点付近は、本来、岡沢交番の管轄になるのですが、通常、変死事案の取扱いは検視等を行うことができる権限を持つ巡査部長の階級にある者が取り扱うことになっており、この日、岡沢交番には巡査部長の配置がなかったため、隣接交番の巡査部長であった私が本件変死事件を取り扱うことになったのです。

3. 現場の状況
 本署幹部の指示を受けた私は、すぐに現場付近の三ッ沢上町交差点にバイクで急行し、この交差点に到着すると、現場であるホンダクリオ横浜三ッ沢営業所の出入口前の路上に、黒っぽいジープが駐車しており、すでに先着していた保土ヶ谷署の当直員や警ら用無線自動車勤務員が実況検分等を実施していました。この時、車内で倒れていたという男性はすでに病院に搬送され、死亡が確認されておりましたので、ジープの車内には誰もいませんでした。
 現場には、この日の当直主任である刑事課の藤山警部補(以下「藤山班長」という)と当直員である刑事課の斎藤清巡査部長(以下「斎藤部長」という)も臨場していました。
 駐車していたジープは、左前輪のタイヤがパンクしていて、前部のフェンダーや側面も損傷し、フロントガラスにもひび割れがありましたが、車内の状況を窓越しから見ると車内に血痕らしいものはありませんでしたし、死体もその場にはありませんでしたので、この時には、車内にいた男性が死亡したのは事故が原因なのかどうかはわかりませんでした。また、駐車していたジープの周辺には事故の痕跡のようなものは見当たりませんでしたので、私は事故の現場がどこなのかを探すために、さらに範囲を広げて現場の周辺に止めてあった車やガードレールなどを確認しましたが、交通事故による衝突と思われるような痕跡等は発見できませんでした。
 その後、藤山班長から、本件変死事件は、地域警察官では誰が担当するのかという話しが出ましたので、本署幹部から取り扱うように指示を受けていた私が名乗り出ました。すると、藤山班長からこれから病院に行こうという指示を受けましたので、私は交番のバイクに乗って、藤山班長、斎藤部長が乗っていた車の後について、車内にいた男性が収容された横浜市立市民病院に向かいました。

4. 病院の状況
午後0時20分ころ、私達3名が病院に到着すると、死体は救命処置室のストレッチャーの上に乗せられているということでしたので、すぐにその処置室に向かい、死亡確認をした女性の医師から事情聴取しました。
 その医師は、死体はもうすでに死後数時間が経っているので、死体を病院に持ってこられても困るというようなことを話した後に、この死体の血液を採って調べてみたら、カリウムの値が高かったので心臓の病気で死亡した可能性があるなどと話していました。
 ストレッチャーの上に乗せられていた死体には、白いタオルケットのようなものがかけられていましたが、タオルケットをはずすと、服はすでに取り除かれていて、ほとんど裸の状態でした。その後、藤山班長、斎藤部長が死体の状況を細かく確認し、その状況を撮影していましたので、私は死体の向きを変えさせたりしながら一緒にその状況を確認しました。
 この時、死体には、脇腹のあたりに火傷のような痕があり、腕などに多少の擦過傷があった程度でした。私は、駐車していたジープのフロントガラスにはひび割れがあったことから、死体の頭や顔も確認しましたが、傷や出血などは一切なく、死体全体の状況から見ても、事故によって死亡したものではないと思いました。
 その後、死体の確認等を終えると、斎藤部長が警察本部捜査第一課に死体の状態などについて報告し、また、葬儀社員に遺体の搬送を依頼した後、午後1時10分ころに病院を出発し、私たちは保土ヶ谷署に向かいました。

5. 保土ヶ谷署の状況
私は、この死体が、今後医師による検案や解剖がなされた上で死因が究明されるものと思いましたので、帰署した後は1階行政事務室にある地域課の付近で、いつでも取扱いができるように待機していました。
私が待機している間、現場からレッカー車がジープを署の裏にある駐車場に搬送してくるのが見えました。
そして、時間は覚えていませんが、その後しばらくして遺族である久保佐紀子さんと息子さんらしい方が保土ヶ谷署に到着し、死体が久保佐紀子さんの夫である久保幹郎さんであることが確認されました。
 その後、当直員の坂井巡査長が、一階行政事務室の警務課の卓上で久保佐紀子さんから事情聴取して調書の作成を開始したため、私は「死体及び所持金品引取書」「解剖承諾書」に必要事項を記載し、遺族の署名、押印等を求められるように準備しました。

6. 横浜犯罪科学研究所における状況
(1) 遺体搬送状況
午後5時00分ころ、斎藤部長と当直員の小巻巡査長が、久保幹郎さんの遺体の検案と解剖のため、横浜市中区蓬莱町にある、横浜犯罪科学研究所(以下「研究所」という)に向かうことになったのですが、この時、私は本署幹部から解剖に立ち会って手伝いをするように指示されたため、すでに準備していた「死体及び所持金品引取書」「解剖承諾書」を遺族からの調書を作成していた坂井巡査長に預け、小巻巡査長が運転する捜査用車両に斎藤部長とともに同乗して、研究所に向かいました。
 遺体は、葬儀社員が保土ヶ谷署から研究所に搬送しました。

(2) 司法解剖の検事指揮
午後5時30分ころ、研究所に到着しましたが、この時、研究所の解剖室には他の警察官扱いの遺体もありませんでしたので、早速、葬儀社員が遺体を解剖台の上に載せました。そして、斎藤部長が伊藤順通先生(以下「伊藤先生」という)に対し、車内で倒れていた状況や車の破損状況について口頭で説明をし始め、伊藤先生も死体を見ていたところ、保土ヶ谷署から斎藤部長に電話があり、司法解剖の検事指揮が出た旨の連絡が入りました。
 そして、斎藤部長が伊藤先生に対し、司法解剖になったので、これから許可請求をする旨を伝えたところ、伊藤先生は「早くしろよ。」などと言い、斎藤部長は、小巻巡査長とともに鑑定処分許可状(以下「許可状」という)の請求のため、保土ヶ谷署に戻りましたが、私は斎藤部長の指示により、遺体とともに研究所に残りました。

(3) 待機中の状況
私は研究所の解剖室の出入口前にあったベンチに座って待機していましたが、その間、他署の死体検案があったことを記憶しています。 その検案がどこの警察署の扱いによるものかどうかまでは覚えていませんが、5〜6人の警察官が研究所に来て、その中に実習生と思われる婦警がいたことを記憶しています。
 斎藤部長らが署に向けて出発した時か、他署の死体検案が来た時かは定かではありませんが、葬儀社員が解剖台にあった久保さんの遺体を一旦葬儀社の車の中に戻していました。そして、この他署の検案があったとき、葬儀社の車は他の葬儀社の車の車と入れ替わって敷地の外に出て、駐車場の入口付近で待機し、私は、解剖室出入口前のベンチに座って待機していました。
 他署の検案が終わり、署員らが引き上げるとき、実習生の婦警が来ていたからだと思いますが、伊藤先生は「次に司法解剖がある。すぐ出るようなら、せっかくだから見せてやる。」と言い出し、私に対して「あとどの位かかるのか確認してくれ」と指示をしました。そして、私は自分の携帯電話で連絡を取ろうとしましたが、伊藤先生は「そこの電話を使っていいよ。」と言ってくれましたので、私は研究所の電話を使って保土ヶ谷署の当直に電話をかけ、斎藤部長らが研究所へ到着する時間を確認しました。この時に電話に出たのが誰かまでは覚えていませんが、「もうすぐ署を出る。あと30分位で着くと思う。」という回答でしたので、これを伊藤先生に伝えたところ、他署の署員は「それならいいです。またの機会にします。」と言って引き上げて行きました。

(4) 斎藤部長らが到着した状況
私は、斎藤部長らが到着するまで、解剖室出入口前のベンチに座って待っていましたが、斎藤部長らが到着すると、葬儀社の車が敷地の中に入ってきて、その後、葬儀社の人が、すぐに遺体を解剖室に搬入して、解剖台の上に乗せました。
 その後、解剖室に出てきた伊藤先生に対して、解剖台の付近で、斎藤部長が遺体が車内に倒れていた状況や車の破損状況等について説明をしていましたが、そのうち、伊藤先生は、流し台のところから手袋を取り、手にはめながら、「どうせ令状出るんだろう。」などと言って、検案と解剖を開始しました。この時解剖室にいたのは、伊藤先生と斎藤部長の私の3名で、葬儀社員は遺体を解剖台に乗せた後、解剖室から外に出て行きましたので、この時にはいませんでした。

(5) 解剖時の状況
ア 私は、本件変死事件を取り扱うまでに、変死事件は100件以上取り扱ったことがありましたし、解剖に立ち会ったことも40回くらい経験していました。そのうち、伊藤先生の検案に立ち会ったことも30回くらいありましたが、伊藤先生の解剖に立ち会ったことはそれまでに一度もなく、このときが初めてでしたので、本件変死事件で解剖に立ち会った時のことは今でもよく覚えています。
 解剖室内における検案、解剖時の伊藤先生たちの位置関係としては、概ね、伊藤先生は仰向けになっていた遺体の右体側側で検案と解剖を行い、私は伊藤先生の右側でそれを補助し、斎藤部長は、遺体をはさんで伊藤先生の反対側にいたり、伊藤先生の横に来たりして検案と解剖の補助をしていました。

イ 初めに、伊藤先生は、解剖台に置かれた遺体の外部所見から検案に入りました。この時、斎藤部長が、車のフロントガラスに蜘蛛の巣状のひび割れがあることを説明していたからか、伊藤先生は、まず遺体の頭部の辺りを触診して、「頭部に外傷はない。」と説明しました。そして、私が遺体の腕と腰を持って遺体を横臥の状況にさせた後、伊藤先生は、後頭窩穿刺の検査により、脊髄液を抽出して血液が混ざっていないことを確認すると、「脳に異常はない。」と説明しました。この時、注射器の中の脊髄液に血液が混ざっていないことは、私も確認しています。

ウ 次に、伊藤先生は遺体の胸部等を触診し、「骨に異常はない。」と説明しました。私は、遺体の左腰の付近に皮下出血のような跡があったので、伊藤先生に対し、「これは打撲ですか。」と質問したところ、伊藤先生は「これは打撲じゃないよ。火傷だよ。」と説明しました。
 私は車の中で火傷をするのか疑問でしたので、「古い火傷ですか。」と質問すると、伊藤先生は、「古くはないよ。エンジンか何かの熱で火傷したんだろう。そんなところに倒れていたのか。低温火傷だな。」と言いました。すると、斎藤部長は「チェンジレバーがある。」等と説明していましたので、私はチェンジレバーに熱が伝わり、チェンジレバーが肌に直接接してできたものかと思いました。

エ 遺体全身の検案を終えると、伊藤先生は、解剖台の遺体の頭部をまたぐように、コの字型の台を置き、その上に、メスやはさみ等の解剖器具や臓器を入れる容器などを乗せていました。そして、伊藤先生は、首の付け根ののど仏の下辺りくらいから、胸部、腹部を通り下腹部のへその下辺りまでを切開し、肋骨や胸骨を取り除くため骨を切断した後、骨や臓器全体の状態を確認し、「これは事故じゃないよ。きれいだよ。」と説明しました。
 私から見ても、遺体の肋骨や内臓に傷んでいる様子もありませんでしたので、私自身も、この遺体は外部からの衝撃によって死亡したものではないと思いました。

オ その後、伊藤先生は色々な臓器を一つ一つ取り出してから、手にとって確認していましたが、私は、中でも胃と腸と心臓を取り出した時のことを今でもよく覚えています。
 伊藤先生が胃を取り出した時、その取り出した胃を左手の手のひらの上で切開し、内部に固形物がないことを確認した後、「この人はお酒を飲むのか。」という質問をしました。これに対して、斎藤部長は「晩酌にビール一本程度飲む。」と説明したところ、伊藤先生は胃の内容物の匂いを嗅いだ後、「酒の匂いはしない。」と言いながら、私達の前にも切開した胃を差し出しました。そして、私も斎藤部長もその差し出した胃の匂いを嗅いで、アルコール臭がしなかったことを確認しています。その後、伊藤先生は、取り出した胃を遺体の頭部付近に置かれた容器の中に入れていました。

カ そして、腸の一部を取り出した時は、腸管をはさみで使って管に沿って1,2メートルくらいスーと切開した後、腸内に内容物がないことなどを確認して、「何も入っていないよ。」と言って、また遺体の腹の中に戻していました。

キ 伊藤先生は、その他にも色々な臓器を確認していましたが、最後には心臓を取り出して、手のひらに乗せて、豆腐を切るように縦にメスを入れて細かく切って確認した後、白く変色している部位を差し、「これだ。これだ。心筋梗塞だ。」と説明し、私達に見せました。
 すると、斎藤部長は伊藤先生に「写真取らせてください。」と言うと、伊藤先生は、新しい容器を用意して取り出した心臓をその容器の中に入れて解剖台の横の床に置くと、流し台の方に行って、縫合の準備をし始めました。  そこで、斎藤部長は手袋を外し、床の上に置いた容器の中の心臓の写真を撮影しました。私は斎藤部長の横で撮影している状況を見ていました。

ク 解剖が終わり、伊藤先生が、遺体の腹部の縫合をしている時、私は、ジープにはフロントガラスのひび割れなどがあったことから、伊藤先生に対して「交通事故と死亡とは関係ないのですか。」と質問すると、伊藤先生は「車を運転中に心筋梗塞が起き、その時どこかに車をぶつけ、その事故のショックで元に戻り、さらにそのまま車を運転して2回目の発作がきて、死亡したのだろう。」と説明しました。
 なお、解剖時の位置関係を明らかにするため、当時の解剖室内の状況を図面に示して末尾に添付します。(省略)

(6) 許可状の発付について
遺体の縫合が終わると、伊藤先生と斎藤部長は解剖室の隣にある事務室に入っていきましたので、私は、葬儀社員とともに解剖室内の清掃を行いました。
 私が解剖室内を片付けている時に、小巻巡査が研究所に来たことは覚えていますが、許可状が発付されたことをいつどのようにして知ったかについてはよく覚えていません。ただ、伊藤先生が奥の事務室で書類を作成している時に、「令状が何分に出たのだから、時間は○○分くらいでいいかな。」等と斎藤部長と話をしていたことは覚えています。
 伊藤先生が書類の作成を終了すると、私と斎藤部長は小巻巡査長の運転する捜査用車両で帰署しました。そして遺体を搬送した葬儀社の車も、ほぼ同時位に出発したと思います。
 署に戻った後、私は地域課の本署幹部に解剖の結果について報告をしていましたので、遺体がその後どのようにして遺族に返されたのかについては分かりません。
 そして、本件変死事件の取扱いを終了した後、私は、和田町交番に戻って通常の交番勤務に移行して翌朝まで勤務していました。

7 おわりに
本件変死事件の取扱い状況は、これまで申し上げました通りです。 亡くなられた久保幹郎さんの妻佐紀子さんが、実際には遺体を解剖していないのに虚偽の死体検案書を作ったなどとして、斎藤部長や伊藤先生らを訴えていることは聞いておりましたが、これまで申し上げましたとおり、斎藤部長と私が立会いのもとで、伊藤先生が久保幹郎さんの遺体を解剖したことは間違いありませんし、解剖の結果、その死因が心筋梗塞と判断されたことも間違いありません。
 なお、本件変死事件が認知される前に、保土ヶ谷署地域二課のパトカー勤務員がジープ車内にいた久保幹郎氏を取り扱っていたことについては、後日聞いて知りましたが、私が本件変死事件を取り扱った時には知りませんでした。
 通常、地域警察官の引継ぎは、各交番ごと、各パトカーごとにそれぞれの勤務員同士が、主に引継ぎの措置を要するような事項などについて行いますが、場合によっては、本署地域課の幹部同士の引継ぎの中で必要に応じて本署幹部から直接指示を受けることもあります。
 しかし、当時、私は、前日の勤務員から三ッ沢上町交差点における久保幹郎さんの取扱いについての引継ぎは受けておりませんでしたし、本署幹部からも何も聞いておりませんでした。
以上


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