斉藤清元巡査部長陳述書(乙A15号証)


注意事項:
    下記陳述書中、斉藤元巡査部長の証人尋問のなかで、棺に関する記述は、遺体が棺に入っていたか、ストレッチャーの上に載せられていたのか、記憶が定かではないという理由で 『削除してほしい』という申し出がありました。しかし、原告の側としては、棺に関する記述を重要と考えて尋問を 予定していた部分なので、陳述書では黄マークをつけて、どこが訂正されたのかを指し示すことにします。


 

横浜地方裁判所第9民事部合議係 御中

平成16年3月25日
斉藤清

私は、平成13年3月31日付で神奈川県警察を退職しましたが、平成9年7月19日に三ツ沢上町交差点付近の路上に駐車していたジープの車内で発見された久保幹郎氏に係る変死事件(以下「本件変死事件」と言います。)については、私が保土ヶ谷警察署(以下「保土ヶ谷署」と言います。)に勤務していた当時、当直員として取り扱っておりますので、その時の取扱い状況について、次のとおり陳述します。

1. 勤務の略歴等
私は、昭和35年12月、神奈川県警察官を拝命し、各地の警察署等の勤務を経て、平成6年10月に保土ヶ谷署に異動となり、その後、平成10年4月に警部補に昇進して南警察署に異動し、平成13年3月に退職いたしました。 私は、これまでの勤務経歴で約27年間を刑事警察部門の警察官として勤務しており、本件変死事件を取り扱った当時は、保土ヶ谷署刑事課強行犯係員として勤務していました。

2. 本件変死事件の認知
本件変死事件を取り扱った平成9年7月19日は土曜閉庁日でしたが、当日、私は当直員に指定されていたため、保土ヶ谷署においては当直員として勤務しておりました。私が指定されていた保土ヶ谷署の当直員の勤務は事件当直といって、当直時間中、つまり夜間や休日における管内で発生した事件事故等の取扱いをはじめ、さまざまな警察業務を処理します。この時は土曜閉庁日でしたので、19日の午前8時30分から翌20日午前8時30分までの予定で保土ヶ谷署において当直員として勤務しておりました。 当日は、当直主任である藤山警部補(以下「藤山班長」といいます。)以下9名の体制で当直勤務に従事しましたが、当直勤務を開始するに当たり、その前日の当直主任や当直員からは、管内における本件事故の発生状況等の引継ぎのほか、特別な引継ぎはありませんでした。
 この日は、午前中、〇〇暴行事件の届出があったことから、私は、他の当直員とともに現場に赴き、その後、関係者を保土ヶ谷署に招致して調書等を作成しようとしていました。すると、藤山班長が来て、「岡沢町の車の中で変死事件があったので現場に行こう。」と本件変死事件の取扱いを指示されましたので、私は、暴行事件の取扱いを他の当直員に任せて、藤山班長とともに、同班長が運転する捜査用車両に同乗して二人で現場である三ツ沢上町交差点方向に向かいました。

3. 現場の状況
午前11時45分ころ、三ツ沢上町交差点に到着すると、現場であるホンダクリオ横浜三ツ沢店前の路上には黒っぽいジープ(以下「ジープ」と言います。)が駐車しており、すでに先着していた当直員や地域課員が実況見分や事情聴取等を実施していました。
 車内にいたという男性はすでに病院に搬送され、病院で死亡が確認されておりましたので、この時にジープの車内には誰もいませんでした。
 そこで、先着していた当直員から事情を聞くと、発見者であるホンダクリオの従業員によれば、ジープがしばらく駐車していて動きそうになかったため車内を確認すると、男性が頭部を助手席側に両足を運転席側にして左側を下にしたような格好で横になっており、呼び起こしたが返事がなく動かないので救急車を呼んだということでした。
 その後、ジープの状況を確認してみると、前部左側のタイヤがパンクしていたほか、前部左右のフェンダーが凹損し、フロントガラスの運転席側にはひび割れなどがある状態でした。なお、このひび割れはこぶし大くらいの大きさで、現場に来ていた交通課の当直員はこのひび割れは外側から何かが当たったと思うと言っていました。
 また、ジープはその外観から何らかの事故を起こしたような状況は認められましたが、ジープ周辺に事故の痕跡などはなく、ジープの車内も確認しましたが、車内に争ったような様子はないし、とにかく死亡した人を見なければ何も分からないと考え、現場における捜査活動は他の当直員に任せて、私は藤山班長とともに、死亡者の搬送先である横浜市立市民病院に向かいました。

4. 病院での状況
 正午過ぎに病院に到着し、救急車が入る裏側の駐車場に車を止めてから、病院の出入口付近にいた病院の警備員に確認したところ、遺体は救急処置室のストレッチャーの上に乗せられているということでした。この時、地域課員である井上巡査部長(以下「井上部長」と言います。)も、私たちとは別に病院に臨場していました。そこで、私は、藤山班長と地域課の井上部長とともに救命処置室に向かいました。
 処置室内に入ると、ストレッチャー上には、白いタオルケットが掛けられた死体が仰向けの状態になっていました。この時、病院で死亡確認をした女性の医師から話を聞いたところ、その医師は、死亡推定時刻は不明であるが、死後数時間は経っていることや死体から血液を採って調べたらカリウムの値が大きかったことなどを話しておりました。
 そして、私達はそのタオルケットを取ると、死体は、着用していた服がほとんど取り除かれていましたので、さっそく死体の外部所見を確認しました。そして、井上部長に死体の体の向きを変えさせたりしながら、私と藤山班長で死体の状況を詳細に確認し、私がその状況を写真に撮りました。
 通常、警察官がこのような死体を見る時は、犯罪に起因するか否かを判断するために、頭部や腹部をはじめ全身の状態を詳細に観察します。私としてもこの点を踏まえて注意深く死体の状況を観察したところ、この死体には、膝と腰のあたりに多少の表皮剥離や圧痕がありましたが、頚部等に索溝等はありませんでしたので、私としてはこれまでの経験上、この死体は犯罪に起因するものではなさそうには見えましたが、この時点ではどちらとも言えないので、いずれにしても、今後は、解剖によって死因の究明がなされることになるであろうと思いました。
 このようにして死体に対する検視を行うことによって、死体の外部所見等の観察を詳細に行ったところ、この死体は、先程言った所見の他にも、全身が蒼白状態であったことや、死斑が背部等に暗褐色に発現していて指圧退消する状態であったことなどのほか、死体硬直が全関節に現れていたことなどが確認されました。
 その後、私は、警察本部捜査第一課の当直に公衆電話で検視の結果を報告し、本署経由で北原葬儀社(仮称)に市民病院まで来てもらうよう連絡し、到着した同葬儀社員の高橋に対して、保土ヶ谷署への死体搬送を依頼しました。そして、私は、その後、藤山班長とともに病院を出発し、保土ヶ谷署に向かいました。死体は、これとは別に北原葬儀社の高橋によって保土ヶ谷署に搬送されました。

5. 保土ヶ谷署での状況
(1) 遺族への連絡 保土ヶ谷署では、死体の身元が、ジープの車両ナンバーから、横浜市〇区の久保幹郎さんであると思われたことから、当直員がすでに電話を架けていたようでしたが、署の当直では久保さん宅と連絡が取れず、電話を架けても呼出し音がするだけで誰も出ない状態が続いていたらしく、午後1時半ころに私が帰署したときも、まだ久保さんの家族とは連絡が取れていない状態でした。私は、呼出し音がしているのに誰も出ないというのは、久保さんの家族が留守ということもありますが、もしかすると、在宅していながらも別の用事があって電話に出られないとか、キャッチホンか何かで電話に出ないのかもしれないと思い、取り敢えず明細地図を見て、久保さん宅の隣近所を確認しました。そして、久保さん宅の前がたまたま酒屋であったことから、そこに電話を架けて、もし久保さん宅に誰かいれば、すぐ保土ヶ谷署に連絡することを伝えてもらうように依頼しました。
 すると、ほどなくして久保さん方から女性の声で電話があり、私は、この女性に、

  • ジープの車両ナンバーを告げての所有者の確認
  • 現在ジープを使用している者の確認
  • 久保幹郎さんとの間柄及び所在の確認

をしたところ、ジープがこの女性の夫である久保幹郎さん所有のもので、昨日から久保幹郎さんがジープに乗って出かけたまま帰ってきていないということが分かりましたので、

  • ジープの前の方をぶつけた状態で三ツ沢上町交差点脇の路上に止まっていたこと
  • 車内にいた男性が救急車で病院に運ばれたが、死亡が確認されたこと

等を告げて、保土ヶ谷署に来て遺体の確認をしてもらいたい旨を依頼しました。
 この時、私は、奥さんがかなり動揺した様子でしたので、とにかく落ち着いてもらうように言葉をかけながら、保土ヶ谷署の最寄り駅等について説明しました。

(2) 遺体の確認
電話を切った後、私は、遺族と思われる久保さんに連絡がついたので、葬儀社員の高橋に依頼して、霊安室内にあった遺体を棺から出して、遺体を乗せる台に移してもらい、白いシーツのような布をその上にかけてもらいました。
 その後、署内で本件変死事件に関する捜査一課への書類上の報告や横浜地方検察庁に対する指揮伺いの準備などをしておりました。
 そして、しばらくたった午後3時50分ころに、遺族である久保佐紀子さん(以下「佐紀子さん」と言います。)が息子さんとともに保土ヶ谷署に到着しました。私は、2人に対して電話で話した内容について再度説明した後、霊安室に案内して遺体の確認をしてもらうことにしました。遺体の確認には、私と藤山班長、井上部長が立会い、佐紀子さんは、遺体の顔を見て、夫の久保幹郎さんであることに間違いないことを確認しました。
 私は、佐紀子さんに対し、署に遺体を安置していることについて、病院には遺体をずっと置いておくことができなかったので、事後承諾にはなるが、葬儀社に依頼して署に搬送したことを話してその了解を得ました。
 そして、署に来ていた北原葬儀社社員の高橋を佐紀子さんに紹介しました。高橋は、当時北原葬儀社の社員で、変死事件があればその取扱いのために署にもよく顔を出していましたので、私は高橋の顔も名前もよく知っていました。しかし、今はもう北原葬儀社を辞めてしまったと聞いております。
 本件変死事件の取扱いの際、はじめは北原葬儀社員として来ていたのは、高橋一人しかいなかったのですが、この時、署で遺族に紹介した後に、高橋は、応援を呼ぶと言って葬儀社に連絡を取っていました。そして、葬儀社員の草深(仮称)と倉田(仮称)に引き継いで署からいなくなりました。その後は、本件変死事件の取扱いでは高橋の顔は見ていません。

(3) 遺族からの事情聴取
佐紀子さんと息子さんに遺体を確認してもらった後、2人には署の裏庭に止めていたジープを確認してもらい、私は、佐紀子さんに対して、久保幹郎さんの死亡原因が今のところ不明であることから、法医学の医師に解剖してもらって死因が分かったところで死亡診断書に代わる書類を書いてもらうことになる旨を説明し、ご主人の普段の様子について事情を聞かせて欲しい旨を依頼しました。すると、佐紀子さんは「分かりました。お願いします。」と了承してくれましたので、早速、当直員の坂井巡査長に佐紀子さんからの事情聴取と調書作成を依頼しました。
 佐紀子さんからの事情聴取は、署の1階行政事務室にある警務課の卓上で行い、私も初めのうちは同席していましたが、その冒頭で、私が、久保幹郎さんの病歴や既往症のことを確認した際、佐紀子さんからは、久保幹郎さんには通院歴はなかったが、最近、胸が苦しいと訴えて関西方面の親戚の結婚式を欠席したことがあり、この時はそのうちに治まったので病院には行かなかったという話や、10年位前に軽いアルコール症肝炎にかかり、現在は晩酌で500ミリリットル缶のビールを1本飲む程度であることなどの話がありました。

(4)横浜地方検察庁への指揮伺い
 私は、佐紀子さんへの事情聴取に少しの間同席した後、横浜地方検察庁に連絡し、本件変死事件の検事指揮伺いをしました。
 指揮伺いは、死体の発見日時、発見場所、死体の状況、現場の状況などのほか、これまでに判明している事実や参考事項として遺族の話などを検事に報告し、解剖の必要性の有無についての意見を添えて、検事の指揮を受けるものです。そして、指揮伺いを受けた検察庁が、死体の取扱いについて行政手続きによるべきか司法手続きによるべきかの指揮を出すのです。
 この時、検事指揮伺いの回答はすぐにもらえませんでしたが、私は行政解剖によって死因を究明し、途中犯罪死体であると判明した場合には、その時点で司法解剖に切り替える旨の意見を添えて、検事指揮伺いをしましたので、行政解剖の検事指揮が出るであろうと考えて、佐紀子さんから解剖の承諾を得ておいた方がよいと思いました。
 そして、事情聴取を受けていた佐紀子さんから解剖承諾書に署名押印をしてもらったことを確認した後、検事指揮が出る前ではありましたが、行政解剖の指揮が出るものと考え、当直主任と検討し、休日でもあったことから自宅内に専用設備を持っている伊藤順通先生(以下「伊藤先生」と言います。)に検案と解剖を依頼しようと考えました。そして、私は、伊藤先生に「解剖をお願いします。」という連絡をして、その承諾を得ましたので、取り敢えず同先生が経営する横浜犯罪科学研究所(以下「研究所」と言います。)に遺体を搬送し、そこで検事指揮を待とうと考えました。

6. 横浜犯罪科学研究所における状況
(1) 司法解剖の検事指揮
遺体の搬送先である研究所は、横浜市中区蓬莱町にあり、伊藤先生がそこで遺体の検案、解剖を行います。
午後5時00分ころ、私は、署で待機していた北原葬儀社の草深と倉田に、遺体を研究所に搬送するよう依頼した後、井上部長、当直員の小巻巡査長と3名で小巻巡査長が運転する捜査用車両で研究所に向けて署を出発し、午後5時30分ころ、研究所に到着しました。遺体は、私たちとは別に北原葬儀社の車で搬送され、ほぼ同時くらいに研究所に到着しました。
研究所に到着すると、葬儀社員が駐車場のシャッターを開けて車を敷地内に入れ、解剖室内にあった解剖台の上に遺体を乗せました。その後、私は、伊藤先生に声をかけ、中から出てきた伊藤先生に対し、解剖室奥の事務室内で、遺体の発見状況等について説明を始めました。この時、私は、伊藤先生に、遺体が壊れた車の中で発見されたこと、その車はタイヤがパンクしていて、フェンダーの損傷やフロントガラスにもひび割れがあること、遺体は病院に搬送されて死亡が確認されたこと、遺体には背中の方に圧痕等があったことなどを説明しました。その後、伊藤先生は解剖室に来て遺体を見始めましたが、この時に署の当直から私の携帯電話に検事指揮の回答が司法解剖であったという連絡が入りました。
司法解剖となると、鑑定処分許可状(以下「許可状」と言います。)を請求する必要があるため、多少の時間を要することになりますので、私は、伊藤先生に対して司法解剖との検事指揮が出たことを説明し、「これから許可状の請求をしますが、早くやりますので遺体をこのまま研究所に置かせてもらえませんか。」と依頼したところ、伊藤先生は「いいよ。急いでやってくれよ。」とこれを了解してくれました。
そこで、私は、私たちが署に戻っている間に、伊藤先生のところに他の死体検案などが入ることも考えられましたので、この時に、遺体を一旦棺に入れて車の中で待っているように葬儀社員の草深と倉田に依頼し、さらに井上部長には研究所に残って遺体の監視に当たるように依頼して、小巻巡査長と2人で保土ヶ谷署に戻り、許可状を請求するための作業に入りました。

(2)許可状の請求
 午後5時50分ころ、保土ヶ谷署に帰署してから、私は、すぐに許可状を請求するため、捜査報告書の関係書類の作成に取りかかりました。そして、午後7時ころには、坂井巡査長が佐紀子さんの事情聴取を終え、調書もできあがったので、私はその調書を点検した後、許可状請求の書類をとりまとめました。
 しかし、この時に、久保幹郎氏の遺体の写真がなく、許可状請求のために使う遺体の写真をポラロイドカメラで撮影する必要がありましたので、午後7時20分ころ、小巻巡査長とともに一旦研究所に向けて小巻巡査長が運転する捜査用車両で出発しました。
 研究所に到着した後、一旦棺の中に入れてもらっていた遺体を、改めて葬儀社員の草深と倉田に解剖室の解剖台の上に乗せてもらい、その遺体を小巻巡査長がポラロイドカメラで撮影して、その写真を許可状請求の疎明資料の一つである写真撮影報告書の末尾に添付した後、午後7時35分ころ、小巻巡査長が一人で横浜地方裁判所に向けて出発し、私は研究所に残りました。

(3)検案・解剖時の状況
ア 私は、小巻巡査長が出発した後、居宅内にいた伊藤先生に声をかけると、中から伊藤先生が出てきましたので、解剖室奥にある事務室内で、許可状の請求に今向かったことや、再度遺体の発見時の状況などについて説明しました。その後、伊藤先生は解剖室に入り、「今、請求に向かったなら、大体何時くらいに出るかな。行政から司法に切り替えることくらいできるだろう。」などと話した後、流し台の方にあった手袋をし始め、今にも検案から解剖に入りそうな雰囲気になりました。私は、未だ許可状が発付されていたわけではなかったので、「先生ちょっと待ってください。」と伊藤先生を留めたのですが、そのまま検案に引き続いて解剖が始まってしまいました。この検案と解剖には、私と井上部長の2名が補助者として立ち会いました。
 解剖室内における検案、解剖時の伊藤先生や私たちの位置関係としては、伊藤先生が大体仰向けになっている遺体の右体側側で検案、解剖を行い、その右横に井上部長がいて、私は遺体を挟んで伊藤先生と反対側のところにいたり、伊藤先生の横に行ったりしていました。
イ 初めに、伊藤先生は、解剖台の上に置かれた久保幹郎さんの遺体全身の外部所見から検案に入りました。この時、私が、久保幹郎さんの乗っていた車には事故の痕跡があって、フロントガラスにも蜘蛛の巣状のひび割れがあることを説明したこともあって、伊藤先生は、まず遺体の顔面や頭部を触って、目視しながら外傷がないことを確認していました。そして、井上部長が遺体の腕と腰の辺りを持って横臥の状態にさせた後、後頭窩穿刺の検査を行い、注射器の中に入った脊髄液に血が混ざっていないことを確認すると、「脳に異常はない。」と説明しました。この時、注射器の中に入った脊髄液に血が混ざっていないことは私も井上部長も確認しています。
ウ 次に、私は、事故の影響でハンドル辺りに胸をぶつけた可能性について聞いてみると、伊藤先生は胸部等を触診してから「何ともない。」と説明しました。
 その後、伊藤先生は、遺体の左下腹部、左腕の外傷等を確認し、「これは皮下出血じゃない。火傷だよ。」と説明した後、「火傷するような所があるのか。」と逆に質問されましたので、私は、車には座席の間にコンソールボックスはなく、直接床になっていますので、体の左を下にしていたという発見時の状況からみてエンジンの熱が原因かもしれないと答えました。
エ 遺体全身の検案を終えると、伊藤先生は、遺体の頭部をまたがせるようにコの字型の台を置き、解剖に使うメスなどの器材や取り出した臓器等を入れる容器を乗せていました。そして、伊藤先生は、遺体の頚部下側から下腹部のへそより下まで正中線に沿ってメスで切開してから、さらにメスを使って皮膚と骨との間を切り離し、左右に開いて、肋骨や胸骨などの状態を見ると、「骨折や皮下出血もないし、きれいだよ。」と説明しました。この時、私もその様子を見ましたが、肋骨部等には圧迫された痕もなくきれいで、何かが衝突したような形跡はありませんでした。そして、伊藤先生は、肋骨などをはさみで切除して、内臓の状態を見てから「これは事故じゃないよ。きれいだよ。」などと説明しましたが、私もそのように思いました。
オ その後、伊藤先生は、色々な臓器を取り出して、それぞれを細かく切って確認していました。その中でも、私は、伊藤先生が肝臓と胃と心臓を取り出して確認している時のことは今でもよく覚えています。
  伊藤先生が肝臓を取り出して確認している時、私が「妻の話ですと前に肝臓をやられているそうです。」と説明し、その臓器を頭部付近に置かれていた容器の中に入れていました。
カ そして、胃を切開している時には、内容物を確認した後、伊藤先生は「胃液だけだ。アルコール臭はない。」などと説明し、私と井上部長にも切開した胃を差し出してきましたので、私もその臭いを嗅ぎましたが、説明されたとおり、その胃からはアルコール臭がしませんでした。その胃も頭部付近に置かれた容器の中に入れていました。
キ 伊藤先生は、その他にも色々な臓器を取り出して細かく確認していましたが、最後には、心臓を取り出すと、手のひらの上で確認しながら徐々にメスを入れて、「ここが白くなっている。」と指示してから、「心筋梗塞に間違いない。」と説明しました。そして、私は、伊藤先生に「写真を撮らせてください。」とお願いをすると、伊藤先生はその心臓を手に持ったまま、一旦流し台の方に行き、新しい別の容器を持ってきてその中に持っていた心臓を置きました。そして、伊藤先生は、この心臓の入った容器を床に置いて、この心臓の写真を撮るように指示しましたので、私は「先生どの部分を撮ればいいですか。」と質問し、伊藤先生が指示した部分を中心にして写真を3枚撮影しました。
 通常、司法解剖を実施する際、解剖状況の写真撮影は行います。この時も私は、検案が終わり解剖が始まる直前に「司法解剖だから写真を撮らせてください。」とお願いをすると、伊藤先生は「いいよ。」と、暗に「撮らなくていい」という意味のことを言いました。私としては、これは本件死体が犯罪性のない死体であることから、暗に「死因に関係のない必要以外の写真まで撮らなくてもいい」という意味で言われた言葉だと思いましたので、結果として死因に直接関係のある心臓の写真3枚だけを撮影したのです。
ク その後、伊藤先生が、遺体の腹部を縫合して、解剖は終了しました。その時、伊藤先生から、死因が心筋梗塞であるのに、車を運転していたことについて、「車を運転中に心筋梗塞の発作が起きて事故を起こし、正気に戻ってしばらく走った後、2回目の発作が起きて死亡したのだろう。」という説明を受けました。
 検案、解剖時の位置関係を明らかにするために、当時の解剖室内の状況を図面にして末尾に添付します。
ケ 解剖終了後、伊藤先生は、死体検案書と死体検案調書の作成に入り、私は伊藤先生から死亡者のことなどについて、改めて質問を受けたのでこれに答えていました。その間、井上部長は解剖室の清掃を行い、解剖室内に呼び寄せられた葬儀社員の草深と倉田は遺体に着物を着せたり、棺に入れる作業を行っていました。
 本来、死体検案調書は、検案を行った伊藤先生が記載した後、私が「検視済」であることを記載して署名押印をすることになっています。これは、異常死体として検視が行われた場合、医師の作成する死体検案書に検視を行った警察官が、検視済みであることを証明した上で、遺族その他の関係者が、役所に検案書や死亡届などを提出して埋葬許可を申請することになっているためで、通常このように記載することになっているからです。
 しかし、この時、私は印鑑を持参していなかったからだと思いますが、一旦伊藤先生から受け取った後、署に戻ってから、必要な事項を記載して署名押印をして、葬儀社に渡したように記憶しています。

(6)許可状の発付
 このように、伊藤先生による本件検案と解剖は、小巻巡査長が許可状請求に出発してからほどなくして開始されました。そして、実際に許可状が発付されたとの連絡が保土ヶ谷署から私のところに入った時には、解剖が行われている最中でした。そして、小巻巡査長が発付された許可状を持って研究所に到着したのは午後8時40分ころで、その時にはちょうど解剖も終了し、伊藤先生が死体検案書などの作成に取りかかっている時でした。
 そして、伊藤先生が書類の作成を全て終了してから、私達は小巻巡査長の運転する車で帰署し、午後10時ころに保土ヶ谷署に到着しました。署に到着すると、藤山班長から遺族が葬儀を北原葬儀社ではなく、吉川葬儀社(仮称)に依頼することになったらしいという話を聞きましたが、その後、遺体は、署の霊安室で葬儀社同士が引き継いでいました。

7 現在の心境
 私は、現在、亡くなられた久保幹郎さんの妻である佐紀子さんやその息子さんから、実際は遺体の解剖をしていないのに虚偽の死体検案書を作ったなどとして、伊藤先生とともに訴えられています。しかし、これまで申し上げましたとおり、私と井上部長が立ち会いのもとで、伊藤先生が久保幹郎さんの遺体を解剖したことは間違いありませんし、解剖の結果、その死因が心筋梗塞と判断されたことも間違いありません。
 本件変死事件を取り扱った後、私は、原告の久保佐紀子さんからのクレームを受けて、直接お会いしてお話もしていますし、電話を受けてお話をしたこともありますが、その時のお話では、主にパトカーの勤務員による久保幹郎さんの取扱いに関してのことで、解剖をしていなかったなど一切出ていませんでした。なぜ、数年経った後、突然言い出したのか全く分かりません。
 この訴訟の中で、元北原葬儀社の高橋栄行が陳述書を提出して、午後2時半ころに遺体を研究所に搬送したとか、この時伊藤先生は後頭窩穿刺を行い、遺体の解剖をせずに死因を心筋梗塞にしたということなどを話しているようですが、私から言わせれば、そもそも遺族が来る前に研究所に遺体を搬送するわけありませんから、午後2時半ころに遺体を運ぶわけはないですし、研究所に来てもいない高橋がどうして解剖をしていないなどと陳述するのか不思議でなりません。
 また、死体検案書を作成したり交付したりすることに私が関わっているということも言われていますが、医師が作成して、遺族に交付する死体検案書に関して、一警察官であった私が、その作成等に関与するわけはなく、実際に関わったこともありません。
解剖室内の状況(陳述書の添付図)


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