横浜地裁判決を受けて
死体遺棄事件を公然と隠す神奈川県警の大罪!
平成18年6月1日(7月23日加筆) HP管理人
1. DNA鑑定を認めても認めなくても関係者は無実・責任なしー我々は、警察ファシズムの国家に住んでいるのか?
保土ヶ谷裁判は、原告が5月8日に控訴し、県警が5月9日に控訴しました。
地裁が2度のDNA鑑定結果を無視して「@司法解剖は存在した、A書類は整っている、B死因は心筋梗塞、
C提出臓器は久保氏のもの」と認定したため、原告が控訴するのは当然ですが、
県警は何が不満で控訴するのでしょうか。(原告の主張は、@司法解剖は存在しない、A書類は偽造品である、B死因はフロントガラスに頭部を追突させたことによる脳内出血、C提出臓器は他人のもの。)
県警の高瀬順治監察官室長は、判決のあった4月25日、「反省点もあった」と述べています。
いったい、県警のいう「反省点」とは何なのでしょうか。
私は一人の日本人として、多くの国民に、是非、この裁判の意味を考えて戴きたいと思います。
地裁の判決文を、そのまま受け入れるなら、これまでDNA鑑定をもとに人を裁いてきた過去は、どうなるのでしょうか。
この国では、ある場合にはDNA鑑定を信用して人を裁き、またある場合には、DNA鑑定を信用せず無視し、
その物差しは、つづまるところ、警察にとって都合が良いか、そうでないかというだけになってしまうのではないでしょうか。
2004年、押田鑑定の結果を再検証する形で、地検は国家予算を使って提出臓器にDNA鑑定をしました。
この時、地検はDNA鑑定結果が正しいということを前提に、「臓器の保管方法が適切でなかったため、
監察医は他人の臓器と取り違えた」として関係者を不起訴にしました。
そして先に地裁は、DNA鑑定結果を信用できないとして、提出臓器を「久保氏本人のもの」と認定しました。
片方はDNA鑑定を肯定し、片方は否定しているけれども、言っていることは「警察と監察医の立場を守りたい」という一つに尽きるのではないでしょうか。
これでは、警察ファシスト国家に住んでいるのと、何ら変わらない。
司法といい、警察といい、関係者は横車のゴリ押しで権威・メンツを守ったつもりでしょうけれども、
判決が正しいと思っている人はいないし、警察の言い分が正しいと思っている人もいません。
そうして、この国の制度を、こんなにも歪めてしまい、信用を失わせていることに、なぜ彼らは気が付かないのか?
2.科学の領域を、法律家が犯してよいのか?
監察医がテレビ朝日を名誉毀損で訴えた別途裁判では、2003年5月19日、東京地裁の貝阿弥裁判長が「臓器が他人のものと信じたことには相当の理由があった」として監察医の請求を棄却、これが最高裁まで行って確定しました。この時、押田鑑定はブロック1個を鑑定した中間報告の段階でしかありませんでした。その後、押田鑑定は複数のブロックと臓器を鑑定する正式鑑定に進み、地検鑑定でも他人の臓器という結果が出ました。
今回、横浜地裁は、この過去の判決と相反する結論を出しました。
そして、日大・押田教授と筑波大・本田教授によって行われたDNA鑑定を採用しませんでした。
驚くべきことに、通常、2つのDNA部位で異なっていれば、完全に他人のものとされるのに、押田鑑定と地検鑑定を合わせれば、提出臓器は6箇所のDNA部位で久保氏本人のものではないとしています。性別・血液型まで異なっています。しかし地裁は、5回の再現性をもって確認されたこれら鑑定結果を「臓器はホルマリンに浸かっているからDNA解析ができたはずがない」として採用しませんでした。
(参考:ホルマリン固定臓器であっても、短鎖DNAなら解読できるとした広島大学のページ「開かれた学問:原爆被爆者の長期ホルマリン固定臓器の過去・現在と将来」←クリック。短鎖DNAはSTR: Short Tandem Repeatとも呼ばれる。)
常識を持った人間なら、ホルマリンというハードルを超えられたかどうかは、鑑定にあたった科学者自身が判定すべきものではないのか、と考えるところでしょう。そして、そうまでして地裁が守ろうとしたものは何か、と。
DNA鑑定結果を認めれば、それが直ちに司法解剖の有無、関係者の証言の信用性を直撃するために、判決に何かの国家意思が働いたと考えるのは、筆者だけでしょうか。
判決文は「DNA鑑定にかけられることを知りながら、監察医が偽って第三者の臓器を提出すると考えることは困難」としていますが、それであれば、DNA鑑定に限らず、裁判における一切の検証行為は無意味です。裁判長が、事実に基づく判断ではなく、最初から被告が正しいという先入観のもとに判決文を書いているからです。
判決文を読めば、はじめに答えありきの結論があり、それに都合の悪い事実は無視するか、無理矢理に否定していることが、誰でもわかると思います。このように、科学の事実に基づかない、司法の権威を振りかざすだけの裁判は、中世の裁判と何ら変わらないと筆者は考えます。
3.保土ヶ谷事件の真実は死体遺棄事件
保土ヶ谷事件は、久保さんが保土ヶ谷署に連行され、そこで死亡していると考えなければ理解できません。
横浜地裁の判決は、その大きな事件の枠から、ことさらに目をそらし、パトカー巡査ら2名の現場での対応に、問題を矮小化するものでしかありませんでした。
最初に現場に駆けつけた警察官2名の言うことが真実ならば、「酒に酔って寝ていると思った」
「免許証は車内から発見されなかった」のですから、
酒酔い運転で免許証不携帯または無免許運転の人を現場に放置して、彼らはパトロールに戻ったことになります。
こんなこと、誰が信じられますか?なぜ車が損傷しているのかを聞くため、あるいは本当に酒酔いと勘違いして、久保幹郎さんを保土ヶ谷署に連行していると考えるのが当然ではないですか。
後から免許証が保土ヶ谷署から返されているのが、何よりの証拠です。判決文は、免許証について全く触れていません。どうして横浜地裁は、その点について不問にしているのか。
遺族は、このように言っています。
「事故で頭を強打し、車内で吐いて倒れていた夫は、酔っ払いと間違われ、一度は保土ヶ谷署に連行された可能性が濃厚です。事実、翌日病院に運ばれたときは免許不携帯で身元不明扱いでしたが、その後、警察から免許証を返されたんです。免許証だけ保土ヶ谷署に移動するなんて有り得ません。署内で死亡してしまったため、第三者に発見されるように遺体を現場に戻した可能性があるんです。」
フライデー5月26日号より引用
保土ヶ谷事件は死体遺棄事件である。これは、もはや可能性の問題ではなく事実です。この5年半に及ぶ裁判において、正午頃に行われた実況見分で発見されなかった免許証・車検証・帽子が、なぜ後になって発見され遺族に返されているのか、警察からは何の説明もなかった。
他の合理的な説明がない限り、事実と断定すべきなのです。
4.神奈川県警は、市民の生命・安全とおのれのメンツと、どちらが大事なのか?
悪魔に魂を売った偏頗な判決により、県警は取り合えずメンツを救われました。しかし、国費を使って弁護士を雇い、記者会見を開かず裁判を戦い、このような不正を隠蔽している神奈川県警を、
我々は許してよいのでしょうか。県警のつまらぬメンツのため、日本を無法者が支配する三流国家にしてよいのか。
5月9日付けの毎日新聞NET版によると、次の文言が見えます。
県警の高瀬順治監察官室長は「久保さんが法令に基づく救護対象者と認めることは困難で、上級審の判断を得るのが相当」と話した。
要するに、「助ける必要はなかった」と言っているわけです。本人は死んでいるのに。
「反省」の言葉を口にしたのは、つまりは失言ですか?
こんなにひどい無理無体、非道が世の中罷り通るのですか?
「上級審の判断を得る」前に、記者会見を開いて、既に多くの人が見抜いている事の真相について、
国民の前に明らかにすることこそ先ではないのか?
神奈川県警は、覚せい罪犯隠蔽事件・女子大生ネガ恐喝事件で深山本部長が引責辞任して以来、県警トップはおろか監察官室まで、一度も記者会見を開いていません。記者会見を開けば、当然、記者の側から多くの質問が飛び出し、公式見解を述べなければならないから、わざと開かないのでしょう。そして、監察ホットラインも苦情申出制度も骨抜きにし、一切の問いかけにノーコメントを貫き、裁判では弁護士を雇い、あらゆる屁理屈を弄して内部犯罪を隠蔽するため被害者と戦っている。
この神奈川県警の不正義・卑怯ぶりを、我々は胸に刻まねばならないでしょう。