平成15年1月14日
横浜地方裁判所第9民事部合議係 御中

第6準備書面
被告伊藤順通訴訟代理人
弁護士 高田 賢造
弁護士 保田真紀子
弁護士 斎藤  榮
第1、原告らの被告伊藤に対する損害賠償請求は、理論的な問題点として、大きく2つの論点を含むものと考えられる。1つは、被告伊藤の行為が国賠法1条に該当するか否かの点、他は、原告らが主張する被告伊藤の不法行為事実と、原告らの蒙ったとする損害との因果関係に関する点である。以下において、この2点に分けて主張する。
1.国賠法1条について。
一、被告伊藤は、第5準備書面第2、1項において、被告伊藤は監察医であり、行政機関から委嘱を受けて、公益目的に従って死因の解明を行ったのであって、監察医がなす死体検案書の作成交付行為も、監察医が公権力の行使としてなした検案、解剖に必然的に伴う付随作用とも言うべき行政作用の一環と目されるものであると述べ、原告らが、あえて、その行為(死亡診断書の作成交付行為)のみを切り離して、これは医師法19条2項に基く行為であり、権力作用的性格がないから、国賠法1条の問題ではなく民法719条の問題である等と論ずるのは詭弁と言わざるを得ないと反論した。

二、この点について、反論の趣旨を明確にするために、現段階において、更に、次の通り補充をする。
    (1)被告伊藤は、監察医であり、国賠法1条にいう公務員である。 監察医がなした検案書の作成行為やその交付行為は、公務員としての監察医が公権力の行使としてなした検案、解剖に内包あるいは包摂された付随作用である。 死体検案書の作成交付行為のみを切り離して、これが私人たる医師にも適用される医師法19条に基く(監察医のなす死体検案書の作成行為が医師法19条に基くものであるか否かは一応問題ではあるが仮にそうだとしても)行為であるからといって、その行為が公権力の行使である検案もしくは解剖と切り離されて、突然、公務性や公権力の行使たる性質を失い、法の適用において、国賠法から民法になると言うのは背理である。 例えば、同じ医師法19条に基く診断書の作成行為であっても、国立病院の医師たる公務員が虚偽の診断書を作成すれば、刑法においては虚偽公文書作成罪(刑法156条)を構成するが、 私立病院の医師たる私人が虚偽の診断書を作成すれば、虚偽診断書作成罪(刑法160条)を構成する理である。 公権力の行使に伴う必然的付随作用は、それのみを切り離して評価すべきではなく、公務員としての監察医の行為、すなわち、公権力の行使として評価すべきである。検案書は委嘱先にも作成交付する場合がある。原告の論法によれば、検案書の作成交付行為の相手が、委嘱先である神奈川県であれば公権力の行使として国賠法の適用があり、これが私人である原告であれば、公権力の行使とは言えず民法の適用になるとでも言うのであろうか。公権力の行使であるか否かは、その行使する相手によって異なる道理はなく、それ自体の性質の評価によるものである。検案書作成交付行為の相手が私人か公法人かによって、その法的評価が全く異なるという道理はない。

    (2)公権力の行使に当たる公務員の意義については、学説判例で意見が分かれるところではある。しかしながら、そもそも、被告伊藤は、公共機関がなすべき死体検案、解剖について公共機関から委嘱を受けた監察医であり、監察医としての職務遂行上、刑事訴訟法168条による鑑定許可令状に基く強制処分としての、いわゆる司法解剖をなしたものである。司法解剖は遺族の承諾なく執刀しうる、強制的処分であり、強制的契機を含む公権力の行使そのものである。従って、被告伊藤は、原告が例示するような、民事の裁判所から委託された押田鑑定人と同じ意味での「鑑定人」ではない。原告の主張は失当である。

    (3)また、原告は、検案書の作成行為が公権力の行使に該当するとしても被告伊藤が、「解剖もしない」のに「故意により虚偽の診断書作成および交付行為」の不法行為をなしたから、国賠法1条の適用はないと主張する。 しかしながら、公権力を行使する公務員に故意重過失がある場合は、同法1条2項により求償権が発生するのであって、同法の適用が排除されるわけではない。

2.因果関係論について。
一、死亡に繋がる交通事故の不存在

(1)被告伊藤に対する原告の損害賠償請求は、因果関係論の見地からも不当である。原告は、亡久保の死因は、交通事故による外因死である、ということを前提に、被告伊藤の「虚偽検案書の作成交付行為」という不法行為により、交通事故死の立証責任を妨害されたので、交通事故による災害死亡の保険金を入手できず(債権侵害による不法行為)、それが原告の主な損害である、と主張しているものと思われる。因果関係論の見地から、本件において、死亡に繋がる交通事故そのものが存在していないことを以下において、まず、指摘しておきたい。

(2)亡久保は、平成9年7月19日、夜中の午前0時過ぎ、大きな交差点の右折専用車線で幌付きジープのハザードランプを点滅させたまま車内で伏せていたのが、通報を受けた警察官によって発見された。どの位の時間そこに停車していたのかは必ずしも定かではないが、甲24陳述書が事実であるならば、約1時間程そこにいたことになる。その間、多くの目撃者がいたと思われるが、110番通報されたのは午前0時過ぎである(甲23、乙A-1,2)。つまり、多くの目撃者が(不審には思ったかもしれないが)警察に通報するまでのことではないと判断した状況にあったと推認出来る。停車から凡そ1時間後に、110番通報により、現場に到着した警察官も、駐車苦情案件として受理し且つ処理したことが伺われる。この時、現場に赴いた警察官は被告となっている村井、青地両名の他に、神奈川警察署の警察官も臨場したことが伺える(乙A−1、2)。そして、それらの警察官の誰一人として、本件車両が交通事故に遭遇し、その結果、車内で人が倒れているものと判断していないのである。交通事故のいわば専門家である警察官が少なくとも3人も現場に臨場して、人身に影響する交通事故の存在を認めていない状況であったのである。そうであるのに、どういう根拠で、交通事故による外因死(平成14年12月13日付け原告準備書面第1、2)である等と断言出来るのか、疑問とせざるを得ない。

(3)原告は、本件車両のフェンダーやバンパーの凹損を指摘するが、これらの凹損が今回の機会に出来たという仮定の立場に立ったとしても、常識的に考えて、それらは、運転者に何らかの突発事態が発生して、蛇行運転をした結果、路側の電柱やガードレール等の傷害物に車輛両側をぶつけたりこすったりしながら走行したのではないか、ということは伺えても、運転者が死亡するような衝撃事故を伺わせるものでは全くない。加えて、フロントガラスの蜘蛛の巣状のひび割れは、今回の機会に、亡久保が頭部を衝突させたために出来たものではないことは明らかである。理由の1は、当該ひび割れは、車輛外部からの衝撃によって付いたものであると考えられること。ひび割れの中心のガラス面は外部がザラザラで内側が滑らかであることは原告も認めている。これはひび割れを作った衝撃の原因が中心部にあるところ、ザラザラになっている面に、ガラス面をザラザラにする程に、硬い物体の衝撃が加わったことを意味している。車内の内側からの、頭部による衝撃であるとした場合、外側の中心がザラザラになることはあり得ない。また、理由の2として、本件のフロントガラスのひび割れは、その形状から、小石などの先端が固くて小さな物の衝撃によって作られたものであると推測されること。ヒトの頭部の衝突による場合は、ひび割れの中心辺りは、もっと大きく、衝撃の中心が点ではなく面となっているはずである。理由の3として、亡久保の頭部等には何らの打撲痕が見られなかったことである。頭部の衝突によるひび割れであるならば、フロントガラスに頭部をぶつけると同時に、ハンドルに胸腹部を衝突させたはずであるから、頭部のみならず胸腹部にも打撲の痕があるはずであるのに、それが見られない。  凡そ、交通事故を起こし、それが原因で死亡したというのなら、それと推認できる何らかの客観的な状況が存在するはずである。本件には、周囲の現場にも、本件車輛にも、亡久保の身体にも、それらが全くない。原告が、亡久保の死亡は交通事故による外因死であるとする前提は、そもそも全くの根拠のない主張である。

(4)これに加えて、原告自身ですら、当初は、夫の不慮の死を交通事故死であると思っていなかったことが伺える。原告が、交通事故死を主張するようになったのは、死亡保険金請求後である。夫がある日突然外出先で死亡し、警察で遺体を引き渡され、解剖承諾書に署名し、その後、解剖を前提に作成された死体検案書(死亡診断書)に死亡原因が「心筋梗塞」と書かれているのを、原告は、死亡後間もなく見たはずである。このような場合、遺族として、最も関心があるのは「何故、どのように死んだのか?」ということであったはずである。つまり、少なくとも、原告が遺体を引き渡され、荼毘に付すまでは、心筋梗塞による突然死であることと解剖がなされていたことに何の疑いを持っていなかったことになる。遺体が荼毘に付されてしまえば、解剖痕の有無や、心筋梗塞という死因の正否の解明は不可能となる可能性が高いことは容易に分かることである。すなわち、原告本人ですら、荼毘に付した段階では死因が「心筋梗塞」であって、交通事故死ではないことに何の疑いも持っていなかったことが伺えるのである。 (5)原告は、「被告伊藤が解剖もしないのに虚偽の診断書を作成交付した」のだから、信義則上、証明責任の転換が行われ、「被告伊藤が交通事故死ではないこと」を主張、立証しなければ、被告が損害賠償責任を免れない等という暴論を述べる(平成14年12月13日付け原告準備書面1,2)。

 まず、被告伊藤が解剖をしなかったという事実の立証も、検案書が虚偽であるとの立証もされたわけではない上、そもそも、交通事故死であるという前提となる根拠事実も全くないのに、何故、交通事故死でないことを主張立証しなければならないのか、理解に苦しむほか無い。

二、その他因果関係の不存在。

(1)原告は、被告伊藤の「解剖の有無」が本件訴訟の論点であるかのごとく主張するが、そうではない。被告伊藤が、亡久保の遺体を司法解剖したことは明白な事実であるが、原告の一方的な主張通り、仮に亡久保の遺体を解剖していなかったとしても、「解剖をしない」ことと「故意による虚偽(死因)診断書作成交付行為」とは一致する論理ではない。解剖をせずとも死因が明らかなケースはいくらでもあり得ることである。解剖をしないで診断書を作成したから、これが直ちに、死因が虚偽であり、故意による虚偽(死因)診断書作成であるということは出来ない。因みに、原告の虚偽診断書作成交付という不法行為の主張が、「死因(心筋梗塞)」ではなく「解剖あり」と書いたことが虚偽である、との主張であったとしても、その点は確かに虚偽であるということになるが、 強制鑑定処分としての解剖を命ぜられたのに、解剖をしなかったと言う責任追求が、委嘱当局等からなされることはあり得ても、直ちに、遺族から、「虚偽」の診断書作成行為として損害賠償の対象になるものではない。 解剖をしていなかったとしても、死因が心筋梗塞であれば診断書の死因は虚偽ではないし、被告伊藤が診断書の死因が虚偽あるということを認識していたことにはならない。  すなわち、解剖をしないのに「解剖あり」と虚偽の記載をしたとしても、そのことが、直ちに、遺族に対する不法行為となるものではない。 尚、くれぐれも誤解を避けるために、繰り返すが、被告伊藤において、亡久保の遺体の解剖をした事実、解剖所見に基き死因を心筋梗塞とした事実は、監察医の良心に誓って、紛れもない事実である。

(2)原告の損害は交通事故による災害死亡生命保険金が取得できなかったという保険金請求債権侵害による不法行為が主な損害であると主張する。被告伊藤の第5準備書面第2、2項でも主張した通り、その損害論と、被告伊藤が解剖したか否かという論点とは別である。また、死因が「心筋梗塞」であったか否かということと、交通事故による死亡保険金が獲得できるか否かということとも論点は別である。つまり、解剖の有無に関わりなく、また、死因に関わりなく、死亡と交通事故との因果関係が主張立証されたか否かが、交通事故による死亡保険金を獲得できるか否かの争点になるのである。交通事故を起こし、それが直接の原因で心筋梗塞の発作を起こし、死亡したのであれば、事故と死亡の因果関係は認められるはずである。これが認められなかったのは、原告において、交通事故と死亡の因果関係の主張立証が充分なされなかった結果に過ぎない。現に、原告は、死亡保険金請求の際、死体検案書が虚偽であるからとして死体検案書を添付せずに保険金を請求している(甲31の2、甲32の2)。しかしながら、原告において、本件の死亡が交通事故によるものであることを合理的に推認させる事実が証明出来ないために保険金を取得できなかったに過ぎないのである。因みに、平成9年11月5日(甲8の5)と11月10日(甲8の6)付けの死体検案書には「普通貨物自動車を運転NTT電柱等3ヶ所に衝突した交通事故」との記載があるのは、原告の当時の主張と、置かれた状況から見て、その意図するところを推察してなされた措置であると認められる。

第2 原告の準備書面(2000年12月13日、及び12月27日付け)に対する意見並びに反論。
  1. 上記準備書面(12月13日付け)中「亡久保幹郎の死因」に関する点の反論は概ね既述の通りであり、交通事故死であることを推認せしめる客観的な状況は何一つない。
  2. 同書面中「得べかりし保険金(共済金)」に関して、5頁(5)「共済契約に基き×××円の共済金の支払いを受けることが出来た筈」というが、金額の根拠が不明である。
  3. 上記準備書面(12月27日付け)中、2「取得の目的と提出先」において、原告が主張する、死体検案書に「解剖有」と記載したことについての既述は、かなり事実を歪曲している。そもそも、原告が解剖をしていない等と主張し始めたのは、死亡後1年も経過してからである。少なくとも、解剖をし検案書を作成した被告伊藤に対して、検案書に関して苦情を言ったのは、死亡後3ヶ月以上経過した10月下旬頃であり、しかも、その時は、交通事故死であると思われるのに、病死と伺わせる検案書は不当であるという趣旨の苦情を言っていたのである。死亡後間もなく、被告伊藤宛に出された原告からの書簡(平成9年11月6日付け消印)(乙−B4の1,2,3)においても、解剖の有無は勿論、亡久保の身体各部の打撲痕や怪我の有無には何ら言及しておらず、警察の対応に対する不満と、交通事故による災害死亡の保険金を取得したいと述べていたに過ぎないのである。フロントガラスのひび割れは当時「拳」大の大きさで付いていたと思われるが、乙4の書簡に同封されていた写真にはフロントガラスのひび割れの写真はなく、原告本人ですら、当時は、フロントガラスのひび割れが、亡久保の死亡の何らかの原因になったとは思っていなかったことが伺われるのである。
第3、被告伊藤のその他の主張。
  1. 1、DNA鑑定に対する意見。
    何度も繰り返すが、被告伊藤において、亡久保の遺体の解剖をした事実、解剖所見に基き死因を心筋梗塞とした事実、その際、臓器の一部を摘出保存して、当裁判所に提出している事実は、監察医の良心に誓って、紛れもない事実であり、公正な鑑定はむしろ被告伊藤においても望むところである。 しかしながら、原告は、被告伊藤が亡久保の臓器を保存していることを知るや、その当時から、父子のDNA鑑定を望んでいたこと、押田鑑定人には被告伊藤から見て、到底公正な鑑定を期待できない、いくつもの事実があり、その結果の極みは、先の「中間報告書」の内容であること等を総合すると、鑑定の手法である「父子関係があることを前提とするDNA鑑定」には、鑑定の手法としての適切さに疑問を拭いきれない。本件は、親子関係の存否の鑑定ではなく、現存する臓器が、本人の臓器か否かの鑑定である。この場合、鑑定の対象物は、本人のものと比較対照するのが本来である。亡久保には戸籍上3人の子があることになっているから、公正な鑑定が期待できるのであれば、父子関係があることを前提としたDNA鑑定に殊更異議を唱えるまでのこともないと思われる。蓋し、3人が3人共に父子関係が存在しないという蓋然性は少ないからである。しかしながら、本件の場合、既に随所で述べた一連の経緯(とりわけ中間報告書の内容と結果)からみて、当方としては公正な鑑定としての信頼感を抱懐し得ないところである。


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