甲19号・元北原葬儀社(仮称)社員、高橋栄行氏の陳述書

付記:午後2時半頃、伊藤監察医が久保氏に後頭窩穿刺をして髄液をとり、「死因は心筋梗塞」と告げただけで解剖をしなかったという葬儀社員による陳述の全文である。 県警と監察医は、これを全面否定、午後7時40分から遺体にメスを入れて解剖をしたとする。 伊藤監察医は「当日、高橋は自分のところに絶対に来ていない」と言い切っている。 この陳述は、同葬儀社員を原告側今村弁護士が訪ね、その聴取結果をワープロで打ったもの。 平成16年7月23日、高橋氏は横浜地裁の証言台に立った。 その際、原告側弁護士に「陳述の内容を読んでみて、訂正すべき箇所というのはありますか」と聞かれ、 「まるっきりありません」と答えている。(平成17年1月2日、HP管理人・萩野谷)


平成12年11月29日

横浜地方裁判所民事部 御中

高橋栄行

陳 述 書

一 経歴など(個人情報のため掲載せず)

二 平成9年7月19日のこと

    1.
    平成9年7月19日の正午過ぎ、保土ヶ谷警察署から北原葬儀社の事務所に電話があり、「横浜市民病院に遺体を取りに来てくれ。」と警察官に言われました。
     その時、事務所にいたのは私一人でした。私は、すぐに寝台車を運転し、事務所から5分ほどのところにある横浜市民病院へ向かいました。
    2.
    私は、横浜市民病院の駐車場に寝台車を停め、そこでしばらく待たされた後、警察官が迎えに来たので一緒に霊安室へ向かいました。
     それまでの経験では亡くなられた方の家族などが病院に来ているのが通常なのに、この日は関係者が誰も病院に来ておらず、警察官に「身元不明体である。」と言われたので、「浮浪者だろうか。」と思った記憶があります。
     私はその後、同室のベッドに横たわっている年齢50歳代ぐらいの男性の遺体をストレッチャーに乗せて移動し、寝台車に載せて、保土ヶ谷警察署へ搬送しました。
    3.
    その男性の遺体が保土ヶ谷警察署に着いたのは、午後2時前でした。
     保土ヶ谷警察署に着いたところ、署内の駐車場に国道16号線の方向を向いてジープが一台停めてあったのが目につきました。地域課の警察官に、「あのジープの中で死んでいた。」と聞かされたので、私は歩いてジープに近づき、その様子を見ました。運転席側のフロントガラスが蜘蛛の巣状にひび割れ、ジープの頑丈なフェンダーの右端が大きく曲がっていましたので、私は交通事故を起こしたのだなと思いました。
     保土ヶ谷警察署管内においては、交通事故の被害者の遺体の搬送は株式会社大船(仮称)葬儀社(同社の社長は保土ヶ谷区の交通安全協会と警友会の会長をつとめています。)が担当する慣例となっていたため、「交通事故で亡くなったのに、何故うちの会社に仕事がきたのだろうか?」とその時、不思議に思いました。また私は、身元不明者なのにこんなにめずらしい車に乗っていることが意外だったので、「プー(太郎)なのに、いいジープに乗っていますね。」などと警察官に話した記憶があります。
     私は一人で遺体を寝台車から同警察署の霊安室に移しました。ほどなく警察官数名(その中に刑事課の斉藤清氏がいたのを覚えています。他に地域課と鑑識係の警察官がいました。)が霊安室に来ました。私は、「なぜ交通課の警察官が来ないのかな?」と疑問に思いました。私は、警察官とともにその男性の遺体の洋服を脱がせ、全裸にしました。そして身長を計った後、鑑識係の警察官が遺体を見分して写真を何枚か撮りました。私は傍らに立ち、その様子を見ておりました。この間、15分ほどだったと思います。
     その後、警察官から、その男性の遺体を伊藤順通医師の医院(横浜市中区所在の横浜犯罪科学研究所)に搬送するよう指示がありました。
     私は、その男性の遺体にシーツをかぶせ、再び寝台車に乗せ、警察官三名(その中に斉藤清氏がいました。)とともに保土ヶ谷署を出発しました。同署を出発する前に北原葬儀社に電話で連絡を取り、「社員二人を伊藤先生のところに応援に向かわせて欲しい。」と要請しました。
    4.
    私が、横浜犯罪科学研究所に到着したのは午後2時半頃でした。私の要請により北原葬儀社の社員2名(草深と倉田、いずれも仮称)も同研究所に来ました。
     私は、その男性の遺体を同研究所の解剖室に移動し、解剖台の上に横たえました。解剖室の隣の部屋で警察官と伊藤医師がしばらく話しをした後、伊藤医師が解剖室に出てきました。
     その後、伊藤医師は遺体に近づき、私が横向きにした遺体に後頭窩穿刺(後頭部に注射針を刺して脳脊髄液を採取する検査)を行い、脳脊髄液に血が混じっていないことを確認していました。そしてその後、伊藤医師は、遺体の解剖を行わないまま、「死因は心筋梗塞。」と警察官に告げると、解剖室から出ていきました。伊藤医師が解剖室にいたのは、5分から10分ほどでした。
     その後、私は草深、倉田とともに後頭部から出た血を拭いたり、遺体のその他の汚れを拭くなどの処置を行っておりましたところ、午後3時過ぎ、北原葬儀社から電話があり、「ご遺族が保土ヶ谷署に来るので、葬儀の打ち合わせのため警察署に向かうように。」との指示がありました。
     私は、白装束に着せてお棺に入れるなどの遺体の残りの作業を草深と倉田に任せて、一足先に寝台車で保土ヶ谷署に向かいました。
    5.
    私は、午後3時30分頃、保土ヶ谷署に着きましたが、遺族はまだ到着していなかったので一人廊下で待っていました。
     その時、私の携帯電話に倉田から電話があり、「遺体はどこへ運んだらよいのか。」と聞かれましたので、私は「取りあえず、保土ヶ谷署に運んでくれ。」と答えました。
     その後、午後4時頃、草深と倉田がその男性の遺体を寝台車で保土ヶ谷署に運んで来ました。その後も「調書を取っている。」ということで、遺族とはお会いすることができず、草深、倉田とともに聴取が終わるのを待っていました。
     その間、私たちは署内の駐車場に停めてあったジープを見たりして時間をつぶしていました。
    6.
    午後6時30分頃、遺族からの事情聴取が終わり、私は斉藤清警察官に久保佐紀子さんとその息子さんを紹介されました。この時、遺体の男性の姓が「久保」ということを初めて知りました。
     警察官に、「久保さんを家まで送って行ってほしい。」と言われたので、私は久保佐紀子さんと息子さんと一緒に寝台車で保土ヶ谷署を出発し、午後7時前に久保さんの自宅に着きました。
     そこで葬儀の日取りや規模について久保佐紀子さんと打ち合わせをしました。通夜と葬儀の日取りを決めた頃、吉川葬儀社(仮称)という葬儀社の社員が来て、「葬儀はうちでやらせていただけないか。」と言われましたので承諾し、「後日、集金に来ます」と言い残して久保さん宅を出ました。
     その後、私は草深に電話して、「うちで葬儀をしないことになった。別の葬儀社が遺体を受け取りに行くので、遺体はそこに置いて帰っていい。」と伝えるとともに、久保さん宅に電話し、「ご遺体は久保さんの方で受け取りに行って下さい。」と伝えました。

三、終わりに

    1.
    私は伊藤医師のことは12年ほど前から知っております。この間、伊藤医師のもとへ運んだ遺体は1000体位はあると思います。
     そのうち遺体の解剖をする率は3割位だと思います。伊藤医師が遺体の解剖を行う時は、搬送した葬儀社の社員も解剖室で立会います。伊藤医師は、遺体の解剖を行う時は喉元からメスを入れ、性器の上3cm位のところまで切り開き、肋骨を切り、心臓などの臓器を取り出し、見分します。警察官は、その様子を写真に撮影します。
     臓器の重さを計ったり、遺体を縫合する作業は伊藤医師が行なわず、葬儀社の社員が行う慣例であり、私自身もたこ糸で遺体の縫合を行ったことは何度とあります。伊藤医師には助手が一人もいないからです。
     伊藤医師が遺体の解剖を行わないで死因を心筋梗塞と告げることは、久保さんの件以前にもしょっちゅうありました。
    2.
    伊藤医師が久保幹郎氏の遺体の解剖を行っていないことは間違いありません。
     私は平成11年の暮れに見たTBSテレビのニュース番組で、久保佐紀子さんやジープが映っているのを見て、すぐさま、「あのジープの事故だ」と分かりました。私は、伊藤医師が後頭窩穿刺をしただけで、「死因は心筋梗塞。」と告げて奥に引っ込んでしまったことをよく覚えていたので、テレビ局に電話をして、取材を受けたことがあります。
     私は取材を受ける前に、確認のために倉田に電話をしました。私が、「テレビを見たか?」と尋ねたところ、倉田も、「見たよ」とのことでした。私が、「司法解剖なんかしていないよなあ、あの時。」と尋ねたところ、倉田は「していないよ。」と答えました。


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