原告側最終準備書面全文
 

目  次

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第1章 はじめに

第2章 本件事件の経緯の概要

第3章 推定される交通事故の態様

第4章 被告村井・同青地の責任

第5章 被告伊藤の責任


平成12年(ワ)第2704号 損害賠償請求事件
原 告 久 保 佐紀子 外3名
被 告 神奈川県  外4名

準 備 書 面
12月16日
横浜地方裁判所第9民事部合議係御中
原告ら訴訟代理人
弁護士   大  野      裕
同    中  西   一   裕
同    今  村     核

    《目次》
    第1章 はじめに 
    第2章 本件事件の経緯の概要
    第3章 推定される交通事故の態様
    第4章 被告村井,同青地の責任
    第5章 被告伊藤の責任


第1章 はじめに

1 貴裁判所における審理の結果,

    @
    被告村井・同青地は,普通貨物自動車の中で久保幹郎が負傷して救護を要する状態にあったにもかかわらず,同人に対する救護措置を怠り,そのために同人を死亡させるに至った事実

    A
    被告伊藤は,被告齋藤らと共謀の上,真実は,久保幹郎の遺体の解剖をしていないにもかかわらず,「死因・心筋梗塞,解剖・有,死亡の種類・病死」と記した虚偽の死体検案書等を発行・交付し,もって,事故死を支払要件とする自動車共済金・生命保険(共済)金の受領を不能ならしめた事実

    は,いずれも完全に証明された。

被告らの行為は,警察及び監察医に対する国民の信頼を大きく揺るがした違法行為であり,貴裁判所が被告らの重大な責任を厳しく指摘する判決を下されることを原告らは確信している。

第2章 本件事件の経緯の概要
 

第1 はじめに

本件事件の真相とその本質を認識するためには,

    @
    本件事件発生の日(1997年[平成9年]7月19日)における関係者らの言動を緻密に分析すること

    A
    被告齋藤を中心とする保土ヶ谷警察署署員と監察医である被告伊藤の共謀による隠蔽工作が発覚した日(1997年[平成9年]7月25日)に至る経緯を正しく把握することが不可欠であると考える。

この見地から,本件事件の経過の概要を,以下のとおり整理する。但し,この整理は,本件事件の真相と本質を認識する上で必要最小限のものであり,もとより網羅的なものではない(引用した書証等も,代表的なものを挙げたに過ぎない。)。
 詳細については,原告久保佐紀子の陳述書【甲42,47】などを今一度ご精査いただきたい。

 

第1 1997年[平成9年]7月18日以前のこと

久保幹郎は,1943年[昭和18年]4月22日生まれの男子であり,1973年[昭和48年]に婚姻した原告久保佐紀子(以下,「原告佐紀子」という。)との間に三人の子(長男原告久保幹彦,次男原告久保幹之,三男原告久保幹也。−いずれも仮称。以下,この3名をそれぞれ,「原告幹彦」,「原告幹之」,「原告幹也」という。また原告4名を併せて,「原告ら」と総称する。)をもうけ,家族5人で横浜市泉区の自宅(以下,「原告ら宅」という。)で生活していた。
 久保幹郎は,原告佐紀子とともに月刊教育雑誌の特約代理店を20年来営んでおり,自宅を事務所とし,倉庫が同市戸塚区にあった。

久保幹郎は身長172cm,体重65〜66kgの,健康な男子であった。久保幹郎には病歴・入通院歴は一度もなく,体の不調を訴えたことも一切なかった。
 久保幹郎は,穏やかでマイペースな性格の持ち主であった。久保幹郎は毎日の食事をほとんど自宅で取り,自宅外で飲酒することはほとんどなく,夕食時にビール1本を長時間かけて飲む程度の酒量が適量であった。久保幹郎は,肥満でもなく,血圧が高いということもなかった【甲47の1〜2頁】。

1997年[平成9年]7月18日午後6時頃,久保幹郎は入庫予定の書籍があったため,原告佐紀子と原告幹也に見送られ,普通貨物自動車(以下,「本件ジープ」という。)に乗って一人で原告ら宅を出た。

 

第2 1997年[平成9年]7月19日〜20日のこと

19日午前0時頃,久保幹郎が未だ帰宅しなかったため,原告佐紀子は,自家用車で久保幹郎を倉庫まで迎えに行こうと思ったものの,行き違いになるといけないと思い,そのまま原告ら宅に滞在した。 同日午前3時頃,原告佐紀子は,原告幹彦・原告幹也とともに就寝した(なお,当時,原告幹之は交通事故による怪我のため病院に入院中であった。)。久保幹郎が外出した同月18日午後6時頃以降,翌19日にかけて,原告ら宅には警察からの電話は一本もなかった(原告ら宅には1,2階あわせて電話機が4台あるから,呼出音に気付かないということは考えがたい。また,受信記録もなかった【原告佐紀子本人調書(第29回)11頁】。)。

他方,前日の18日の夜,久保幹郎は,本件ジープを運転中に事故を起こした。 その後,久保幹郎は意識が混濁した状態のもと同ジープを走行させ,翌19日午前0時頃,交通量が夜間でも多い幹線道路にある『三ツ沢上町交差点』(以下,「本件交差点」という。)手前の右折専用車線上の停止線付近に,ハザードランプを点滅させた状態で本件ジープを停止させた。本件ジープには,フェンダーとバンパーの凹損・フロントガラスの蜘蛛の巣状のひび割れ・左前輪タイヤのバーストなど一見明白に事故に遇ったことを伺わせる損傷があった。

19日午前0時15分頃,車両前部に衝突の痕跡がある本件ジープが,対面信号機が青を表示しているにもかかわらず本件交差点手前で停止したままであることを不審に思った会社員(「三菱自動車販売神奈川営業所」に勤務する平岩三郎(仮称)」が110番通報をした【甲23】。 この通報を受け,保土ヶ谷警察署の地域課に所属する被告村井と被告青地はパトカーにて本件交差点付近に到着した。被告村井又は被告青地のいずれか一方は,本件ジープに乗り込み,同ジープを運転して,『ホンダクリオ横浜三ツ沢店』の前まで移動させた。しかし,その後,被告村井と被告青地は,久保幹郎を病院に搬送することも,事故発生の事実を同人の家族に連絡することもしなかった。

19日午前8時30分頃,『ホンダクリオ横浜三ツ沢店』の藤原店長(仮称)は,同店前に本件ジープが停車しているのを発見した。その後,同人は同日午前11時頃,営業の邪魔と思って本件ジープ内を見たところ,同ジープ内に久保幹郎が横たわっているのを発見して119番通報した。 同日午前11時15分頃,久保幹郎は横浜市民病院に搬送され(本件交差点と同病院は,直線距離で数百mの至近距離にある。),同日午前11時22分,同病院の小島玲子医師によって久保幹郎の死亡が確認された(同病院においては,久保幹郎は「氏名不明」の扱いとされていた【甲7】。また久保幹郎の遺体から採取された血液からは,アルコール成分は一切検出されなかった。)。

19日午後1時40分頃,久保幹郎の遺体は,「氏名不明」のまま,横浜市民病院から保土ヶ谷警察署に,北原葬儀社(仮称)の社員藤尾正之(仮称)が運転する寝台車で搬送された(横浜市民病院と保土ヶ谷警察署は,直線距離で約1kmとごく近い距離関係にある。)。 その後,同日午後2時頃,久保幹郎の遺体は上記寝台車により,被告伊藤が経営する横浜犯罪科学研究所に向けて出発した(保土ヶ谷警察署と横浜犯罪科学研究所との間の距離は直線距離で約3km程度と近い。)【甲19】。

(1)
19日午後2時30分頃,久保幹郎の遺体は横浜犯罪科学研究所に到着した。

(2)
その後,藤尾正之は,応援にかけつけた同僚・草深と倉田(いずれも仮称)と協力し,久保幹郎の遺体を同研究所の解剖台の上に横たえた【甲19】。
 この間,解剖室の隣の部屋で,被告齋藤と被告伊藤は話をしていた。この話の中で,被告齋藤は被告伊藤に対し,「単なる変死」としての情報を与えたのみで,遺体の発見状況(=交通事故に遇ったと思われる車両の中で発見された旨)を説明しなかった(この事実は,被告伊藤自身,別件訴訟の法廷で「交通事故に遇ったとか遇わないとか聞いていない」旨証言し【乙B8の9頁】,自認している。)。

(3)
そして被告伊藤は,藤尾正之らが立ち会いのもと,遺体の状況を見分し,後頭窩穿刺をしたうえで死因を「心筋梗塞」と述べた。しかし,被告伊藤は遺体の解剖は一切しなかった。被告伊藤が久保幹郎の遺体と対面していたのは,わずか5〜10分のことである【甲19】。

(4)
その後,久保幹郎の遺体は葬儀社社員によって拭き清められ,棺に入れられた後,葬儀社の車によって保土ヶ谷警察署に戻された(なお,藤尾正之は,久保幹郎の遺体よりも一足先に保土ヶ谷警察署に戻った。)

7 
19日午後3時頃,原告ら宅前にある『芝山酒店』(仮称)の妻芝山百合子(仮称)が原告らの自宅を訪れ,原告佐紀子に対し,「ご主人が事故に遇った旨の電話が保土ヶ谷警察署からあったので,同署の齋藤さんまで電話を入れて下さい。」などと伝えた【甲48】。
 そのため原告佐紀子はすぐに保土ヶ谷警察署に電話を架けたところ,横浜犯罪科学研究所から同署に戻っていた被告齋藤が電話口に出た(横浜犯罪科学研究所から保土ヶ谷警察署までは直線距離で3km程度であるから,車で移動すれば10分程度で到着することができる。)。
 原告佐紀子は,被告齋藤から,久保幹郎が死亡交通事故に遭った旨を告げられたため,当時原告ら宅にいた原告幹也とともに直ちにタクシーで保土ケ谷警察署に駆け着けた(原告ら宅と保土ヶ谷警察署との間の直線距離は12km程度であるが,自動車で移動する場合は高速道路を使用するため,20分もあれば到着することができる。)

(1)
19日午後4時前,原告佐紀子と原告幹也は保土ヶ谷警察署に到着した【甲42の3頁】。

(2)
同署では被告齋藤が応対をし,同被告は原告佐紀子に対し,「皆,学生で大変だろう。病死だと保険も安くて大変だろうけど,頑張るんだよ。ご主人は心臓悪くなかったか?」などと執拗に尋ねた【甲42の4頁】。

(3)
その後,同日午後4時過ぎ,被告齋藤立ち会いのもと,原告佐紀子と原告幹也は保土ヶ谷警察署内にて久保幹郎の遺体と1〜2分の間,対面した。

(4)
その後,原告佐紀子と原告幹也は,保土ヶ谷警察署交通課事務室に戻ったが,被告齋藤は原告佐紀子に対し,「パトカーや救急車の通報は,一件もなかった。」,「事故現場が見つからない。」,「病院に行っていないので,医者に見せなければならない。」などと説明した【甲42の5頁】。

(5)
その後,保土ヶ谷警察署の事務室にて,原告佐紀子の供述調書が、被告齋藤が同原告に質問する形で作成された(但し,ワープロに打ったのは,被告齋藤とは別の警察官であった。)。

(6)
同日午後6時30分頃,原告佐紀子と原告幹也は,被告齋藤の指示により,久保幹郎の遺体より先に原告ら宅へ帰ることとなった【甲42の6頁】。なお,原告佐紀子と原告幹也が保土ヶ谷警察署に到着した同日午後4時過ぎ以降,原告ら宅に向け同署を出た午後6時30分頃までの間,被告齋藤が原告佐紀子の面前から離れたことはなかった。

(1)
19日午後7時前,原告佐紀子と原告幹也は,藤尾正之が運転する葬儀社の車で原告ら宅に到着した。その時には,既に事故の知らせを聞いて,原告幹彦や原告らの親族10人ほどが原告ら宅に集まっていた【甲42の7頁】。

(2)
その後,藤尾正之は原告ら宅に上がり込み,同所から保土ヶ谷警察署に架電し,久保幹郎の死因が心筋梗塞であり,死亡時刻は午前3時である旨を確認した。

(3)
その頃,『芝山酒店』経営者夫婦の勧めにより,葬儀社を北原葬儀社から吉川葬儀社に変更することとなったため,藤尾正之は原告ら宅から退去した。

(4)
その後,原告佐紀子は,保土ヶ谷警察署宛てに架電し,久保幹郎の死因が心筋梗塞であり,解剖はしなかった旨を被告齋藤から告げられた【甲42の8頁】。

10
(1)
19日午後7時30分前,保土ヶ谷警察署へ遺体を引き取りに行くよう藤尾正之から原告ら宅に電話があったため,葬儀社(吉川葬儀社)の車で長男幹彦が同社の社員2名とともに保土ヶ谷警察署に向った。

(2)
同日午後8時前,原告幹彦らは保土ヶ谷警察署に到着し,久保幹郎の遺体は,自宅前に午後8時25分頃,原告ら宅前に到着した【甲44】。

(3)
そして久保幹郎の遺体は,自宅近くの吉川葬儀社の事務所に運ばれ,同所にて木製の棺から布製の棺に移し替える作業が行われた。この移しかえ作業には吉川葬儀社の社員5〜6名と原告幹彦が立ち会った【吉川証人調書4頁〜】。

11
19日午後8時25分,横浜地方裁判所裁判官から鑑定処分許可状が発布された【乙A21】。

12
19日午後9時過ぎ,布製の棺に移しかえられた久保幹郎の遺体が原告ら宅に運びこまれ安置された。久保幹郎の遺体が原告ら宅に戻って来た際,原告佐紀子は,『吉川葬儀社』の社員に6000円を支払い,被告伊藤作成の領収書を受け取ったが,同原告は,この日は,伊藤医師が発行した死体検案書は目にしていない。

13
翌20日午前2〜3時頃,原告ら宅に駆けつけた親族らが皆引き上げた後,原告佐紀子は,棺の蓋を開けて夫久保幹郎の遺体と対面した。原告佐紀子は,自らかつてみぞおちの下を打って意識を失った経験があったため,白色の死装束の胸元を開き久保幹郎の胸を撫でたが,その遺体には解剖による切開の痕はなかった【甲42の9頁】。

 

第3 1997年[平成9年]7月21日以降のこと

1 同年7月21日
本件ジープを保土ヶ谷警察署から引き上げ終わった原告佐紀子の甥から同原告宛てに電話があり,事故について保土ヶ谷警察署に調べ直してもらうよう勧められたため,原告佐紀子は直ぐに保土ヶ谷警察署に電話を入れ,その旨を申し入れたところ,被告齋藤は,本件ジープを一度警察に戻すよう指示した【甲42の9頁】。

2 同年7月22日

(1)
22日,一時退院していた原告幹之が,事故現場を探しに出掛け,本件交差点近くにある『葵寿司』(仮称)の経営者の妻村岡陽子(仮称)が本件ジープを目撃していたことを知った。
 村岡陽子は,要旨,「午後11時過ぎ,パタパタというパンクの音をさせてジープが走って来て,店の前の付近で止まったため,パンクを直しに降りて来ると思って暫く見ていたが,なかなか降りて来ないので気になったが,そのまま店の中に入ってしまった。」旨を説明をした【甲24,45】。
 この説明を聞いた原告らは,「誰かが,ジープを『ホンダクリオ』の前まで動かしている。誰だろう?」と不審に思ったものの,被告齋藤から「パトカーの通報は一件もなかった。」旨言われていたため,「警察が直ぐに,誰がジープを動かしたかを調べてくれるはず。」と考えた。

(2)
また原告幹之は,22日,本件交差点付近にある『三菱自販』を訪ねたところ,佐々木販売課長(仮称)が原告幹之に名刺を出して,「私の部下がよく見て知っている。休暇中だから,後日,電話を寄こすように。」などと述べた【甲45】。

3 同年7月23日
23日夜,久保幹郎の通夜が戸塚斎場にて執り行われたが,その後,原告幹之と原告幹也は,同所にて棺を開けて,久保幹郎の遺体の胸部には解剖跡がなかったことを確認した【甲45,46】。

4 同年7月24日
同日の夜,本件ジープを保土ヶ谷警察署に同日戻した原告佐紀子の甥が,原告ら宅に久保幹郎の所持品などを届けた。甥は,「ジープの中を一所懸命に捜したが,帽子はなかった。ジャンパーのうえに吐瀉物があった。」などと述べた。頭髪が薄いのを気にして久保幹郎は常に帽子をかぶっていたため,夫の帽子がなぜジープ内にないのか,原告佐紀子は不思議に思った。
 また同日,被告齋藤は同甥を「事故現場」に案内したが,久保幹郎が本件交差点手前の右折専用車線上に停止した状態の本件ジープ内で倒れていたことも,パトカーが出動して同ジープを移動したことも,全て隠していた。

5 同年7月25日(保土ヶ谷警察署署員らによる「隠匿行為」が発覚した日)

(1)
25日午後8時半頃,原告佐紀子は『三菱自販』の平岩三郎(仮称)宛に電話を入れ,同人と初めて話をした。この時,実際は同月19日にパトカーが出動していたことを初めて知らされ,原告佐紀子は強い衝撃を受けた。
 原告佐紀子は,すぐに保土ヶ谷警察署に電話をかけ,折り返し電話を掛けて来た被告齋藤に対し,「パトカーが出ていたじゃないですか。よくも騙したわね。」などと怒りを述べた【甲47の7頁】。

(2)
すぐに,原告佐紀子は『吉川葬儀社』に行き,同社が保管していた死亡届死体検案書のコピーを見せてもらい,この時初めて見た同書類に「解剖有」との記載があることを知り驚愕した。

(3)
その後,同日午後9時頃,原告佐紀子は平岩三郎と直接会って話を聞いた。平岩三郎は,自身及び同人の同僚がハザードランプを点滅して停止していた本件ジープを発見し不審に思い警察に110番通報したこと,その後パトカーが臨場して本件ジープを『ホンダクリオ』前に移動したことなどを告げた【甲23】。

(4)
同日夜中,原告佐紀子の留守中,保土ヶ谷警察署から頻繁に電話が原告ら宅に入っていた。

6 同年7月26日
同日午前10時頃,保土ヶ谷警察署の山本副署長と土屋刑事課長が原告ら宅を訪ねて来た。 原告佐紀子の質問に対し,両名とも,久保幹郎の頭部・胸部の解剖を行った旨を説明した 【甲47の8頁】。 同日午後5時頃,3名の警察官(被告齋藤,被告村井,被告青地)を伴い, 山本副署長と土屋刑事課長が再度,原告ら宅を訪ねて来た。 この面談の際のやりとりの要旨は,・・
    問(原告佐紀子)
    「主人の車を運転して移動した時に,前輪がパンクしていてハンドル操作が限界のことは分かったはず。サイドミラーが破損し,フロントガラスは蜘蛛の巣状にひび割れ,夫は運転席で倒れていた。この状態で事故と思わなかったのか?なぜ病院に連れて行かなかったのか?」
    答(被告村井)
    「酔っ払いと思った。」
    問(原告佐紀子)
    「酔っ払いと思ったのなら,必ず警察署に連行するはずでしょう!」
    答(山本副署長)
    「飲んで運転中でないと連行はできない。アルコールを飲んでいなかったことは確認されている。」
    問(原告佐紀子)
    「なぜ家に連絡しなかったのか?」
    答(被告村井)
    「免許証がなかったから,分からなかった。」
    ※なお,久保幹郎が運転免許証を携帯していた事実は争いない。実際,原告佐紀子は,運転免許証を同月19日に被告齋藤から返してもらっている。更にはジープのダッシュボードには車検証と自動車保険の証書が入っていた。
    問(原告佐紀子)
    「本当に解剖したのか?」
    答(被告齋藤)
    「頭は解剖しなかった。」
というものであった。

7 同年7月27日

(1)
同日,原告佐紀子は,『ホンダクリオ』にて同店の藤原店長と面談し,同人が同月19日午前11時頃,119番通報をした旨聞かされた。

(2)
同日午後5時頃,原告佐紀子は,片倉消防署を訪ねた。原告佐紀子は,担当者であった藤田(仮称)から,救急車の要請を受けて出動し久保幹郎を横浜市民病院に搬送した旨,搬送時にジープ車内を隈なく探したが免許証が見つからなかったために身元不明体として搬送した旨,市民病院に搬送した後の帰路,『ホンダクリオ』前で警察官がジープを調べていたので立ち寄り,身元が判明したかを確認したが,警察官に「分からない」と言われた旨などの説明を受けた【甲47の11頁】。
 原告佐紀子は久保幹郎が「身元不明」の状態で横浜市民病院に搬送されていたことを,この時,初めて知った。

8 同年8月4日
原告佐紀子は,同年7月24日に保土ヶ谷警察署に再度届けていた本件ジープを,自宅まで引き上げた。同ジープの助手席には,久保幹郎の帽子がのせてあった。

9 同年8月8日以降
この頃から原告らは,「解剖しないで,このような虚偽文書を作成されては,どこにも提出できない。学生保険にも生命保険にも,死体検案書を提出できずに困り果てている。正しい文書に訂正して下さい。事故証明も出して下さい。」などと求め,保土ヶ谷警察署の署長及び被告齋藤との面談を再三にわたって求めたが拒否され続けた。原告らは保土ヶ谷警察署の一連の対応に納得が行かず,県警の監察官室に電話をしたこともあった。

10 同年9月10日
保土ヶ谷警察署の山本副署長から原告佐紀子宛に電話があり,「事故証明は来週出ます。検案書の件は,もう少し考えさせて下さい。」との連絡があった。

11 同年9月11日
保土ヶ谷警察署の山本副署長から原告佐紀子宛に電話が入った。同副署長は原告佐紀子に対し,「どうしても,警察からは『正しい書類にして欲しい。』と伊藤先生に言えない。正しく直すと罪になるんだよ。久保さんの方から,伊藤先生に頼んでくれないかな。」などと懇願した。原告佐紀子が,「何で私が頼む必要があるのですか。筋が違うでしょう。自分たちで汚した書類は,自分たちで綺麗にして下さい。」などと伝えると,同副署長は,「もう少し時間を下さい。」と返答した。

12 同年10月4日
保土ヶ谷警察署の和田警務課長から原告佐紀子宛に電話があり,「事故証明が出ます。署長が会います。」との連絡があった。

13 同年10月8日
原告佐紀子は,原告幹彦・原告幹之と小泉司法書士(仮称)を伴い,保土ヶ谷警察署を訪ね,同署の伊藤署長と面談した。伊藤署長は,交通事故を認め,「事故証明書は出します。よく相談してあるから,伊藤先生の件は,直接先生に聞いて下さい。」などと述べ,その場で和田警務課長に対し被告伊藤に電話するよう命じ,「17日に伊藤先生のところに行くように。」と告げた。

14 同年10月17日
同日午前11時20分頃,原告佐紀子は,原告幹彦・原告幹之・小泉司法書士らとともに,横浜犯罪科学研究所で被告伊藤と初めて面談した。
 被告伊藤は,「(久保幹郎の遺体は)8時半から10時半までの間,あったと述べたため,原告佐紀子が,「それはありえない。」,「夫の体は解剖されていなかった。」などと追及したところ,被告伊藤は,「俺は解剖した。頭も体も解剖した。」と述べた。
 これに対し,原告佐紀子が,「ならば証拠の写真と書類をここに出してください。」と述べたところ,被告伊藤は,「そんなものあるか。そんなものは警察に見せて貰え。俺は何も知らない。俺も警察の被害者だ。俺ばっかりいじめるな。そんなことは警察に言え。」などと述べた【甲47の17頁】。

15 同年10月24日
被告伊藤からの申し入れを受け,原告佐紀子と小泉司法書士は再度同伊藤のもとを訪ねたが,その際,同被告は同原告に対し,「俺も中央大学の教授だ。俺と喧嘩してどうする。俺に逆らって得した者は誰もいない。悪いようにはしないから,もう一度診断書を請求してくれ。」などと述べた【甲47の18頁】。

16 同年12月19日
原告佐紀子は,長男幹彦とともに保土ヶ谷警察署を訪ね,和田警務課長に対し,不祥事を起こした3警察官(被告村井・同青地・同斎藤)の処分・解剖に関する被告伊藤の報告書の提出・久保幹郎の遺骨の前での関係者の謝罪を求めた。

17 1998年[平成10年]1月14日
保土ヶ谷警察署の和田警務課長は原告佐紀子宛ての電話にて,「伊藤先生が,頭は解剖しなかったことは認めた。伊藤医師が,『車の保険屋さんに自分のところへ来て欲しい。』と言っている。後は久保さんの腕次第ですね。」などと述べた。原告佐紀子は,和田課長の言葉に従い,本件ジープが加入していた自動車共済である全労済の担当者・加藤(仮称)に電話をし,その旨を伝えた。

18 同年9月23日
原告佐紀子は,被告伊藤・同村井・同青地を,横浜地方検察庁に告訴した。

19 1999年[平成11年]9月11日
この頃,次々と発覚した神奈川県警の不祥事の一貫として,本件が初めて新聞報道され,そのため神奈川県警は本件についてマスコミ発表をした。

20 2000年[平成12年]2月7日

(1)
同日夕刻,被告伊藤は,原告らの代理人(弁護士大野裕)宛に電話をかけ,「久保さんが来た時には,久保さんも興奮していたので冷静に話が出来なかった。静かに話しあう機会が欲しい。」などと申し入れた。

(2)
その後,同年初旬,被告伊藤は原告ら代理人(弁護士大野裕)とJR品川駅前の『パシフィックホテル』で面談した。その際,被告伊藤は大野弁護士に対し,「解剖をしたかしなかったかを争っても,お互い時間と費用がかかるだけである。診断書を『事故死』に書き変えて保険金満額が出るようにするから,どうか久保さんをなだめて欲しい。」などと述べた(なお,被告伊藤も,上記面談の事実自体は認め,横浜地検の土持検察官から「一度,告訴人の代理人と会って話し合いをするのもこの事件の解決方法と言って勧められた。」ために面談するに至った旨【乙B14】述べている。)。

 

第4 結 語 ―本件事件の本質―

1 序 論
本件事件の経過の概要を,以上のとおり整理した。

(1)
この経過の概要の中には,被告らが否認している事実もある。
 しかし,原告らが供述している上記の一連の流れにおいては,本件事件の当事者(被告齋藤・被告伊藤など)の様々な具体的な発言や行動が,有機的にかつごく自然な流れとして相互に関連づけられていることが分かる。

(2)
また原告らが供述している上記の一連の流れは,目撃者ら(『芝山酒店』の芝山百合子・『葵寿司』の村岡陽子・『三菱自販』佐々木課長と平岩三郎,『横浜市民病院』の小島玲子医師・『片倉消防署』の藤田,『吉川葬儀社』の吉川明弘,『横浜地検』の土持検察官等々)らとの面談などの具体的な行動に裏付けられている。

(3)
原告らの上記の一連の流れに関する供述の信用性は極めて高い。

2 保土ヶ谷警察署と監察医の共謀による救護義務違反の事実の隠蔽工作

(1)
    @
    本件事件の発端は,1997年[平成9年]19日午前0時過ぎ,110番通報を受けて本件交差点に2名の警察官(被告村井と同青地)が臨場し,交通事故の損傷跡が明白な本件ジープ内に久保幹郎が意識が混濁した状態で倒れていたのを発見したにもかかわらず,久保幹郎を病院に搬送する措置を取らず,それがために久保幹郎が死亡してしまったことにある。

    A
    2名の警察官は,久保幹郎を病院に搬送せずに「そのまま本件ジープ内に放置した」可能性のほかにも,実は久保幹郎を病院に搬送せずに「保土ヶ谷警察署に連行したが,死亡してしまったために,本件ジープに戻した」との可能性もある。
     久保幹郎は,同日午前11時過ぎに横浜市民病院に搬送され,その後,午後1時過ぎに同病院を出るまでの間,「身元不明」と扱われていた。しかし,久保幹郎は,当時,自動車運転免許証を携帯していたという事実に争いはない。前者の可能性であれば,救急隊員・病院職員は,運転免許証を直ちに発見し,久保幹郎の身元を確認したに違いない。同病院で「身元不明」とされた理由は,実は,救急隊員が臨場し,久保幹郎が 同病院に搬送された当時,運転免許証は保土ヶ谷警察署内にあった―すなわち,同日未明,被告村井・同青地が久保幹郎を保土ヶ谷警察署に一度連行して同警察署で免許証を取り上げたが,同人死亡後に久保幹郎をあわてて本件ジープを戻した際に,免許証だけは同ジープに戻し忘れてしまった―考えるほか,合理的に説明し得ない。

    B
    いずれにしても,久保幹郎死亡という事態に直面した保土ヶ谷警察署は,この大失態を何とか隠蔽しようとした。これが本件事件の発端である。

(2)
このような動機ないし必要性から,まず,保土ヶ谷警察署(一連の対応の中心人物が被告齋藤であることは明らかであるが,首謀者が具体的に誰であるかは特定できないため「保土ヶ谷警察署」と表現する。)は,本件ジープが本件交差点の右折専用車線上に止まっていたこと,19日午前0時頃にパトカーが現場に出動したこと,臨場した2名の警察官は本件ジープを移動させたものの久保幹郎を病院に搬送する措置を取らなかったこと,久保幹郎が実は同日午前11時過ぎに横浜市民病院に搬送されていたことなど,本来であれば遺族に伝えてしかるべき基本的な情報を原告らに一切提供せず,秘し続けた。

(3)
他方において,保土ヶ谷警察署は,この大失態を隠匿するため,久保幹郎の死を「交通事故死」ではなく「病死」とする必要性に迫られた。
 そのため,保土ヶ谷警察署は,1960年[昭和35年]から横浜市の監察医を務め【乙B8】,ここ数年を見ても1年間に実に1000〜2000件の死体検案と100件前後の解剖(司法解剖・行政解剖)をこなし【乙B8】,本件以前にも死体の死因を「心筋梗塞」と安直に判断する習癖の持ち主であった被告伊藤のもとに久保幹郎の遺体を運んだ際,あえて交通事故に関する情報を被告伊藤にあえて提供せず(この事実は,別件訴訟で被告伊藤がはっきりと認めている。)に,「病死・心筋梗塞」を内容とする死体検案書を作成させたのである。
 40年間に及ぶ神奈川県内の警察署と監察医被告伊藤との関係においては,様々な「貸し借り」があったに違いない。本件では,「借り」を受けたのは保土ヶ谷警察署であった(被告伊藤の「俺も警察の被害者だ。」との発言は,これを顕著に示すものである。)。

3 隠蔽工作の発覚

(1)
しかし,保土ヶ谷警察署と被告伊藤らによる隠蔽工作は,原告らが本件事故について疑問を抱き目撃者探しなどをし,村岡陽子(『葵寿司』)・平岩三郎(『三菱自販』)・藤田(『片倉消防署』)などから真実を知らされたために,1997年[平成9年]7月25日,発覚してしまった。

(2)
隠蔽工作が発覚してしまった保土ヶ谷警察署の驚きようがいかに大きかったかは,同署の副署長と刑事課長が直々に,発覚の翌日(26日),関係当事者全員(被告村井,同青地,同齋藤)を引き連れ,原告ら宅に出向いている事実からよく分かる。

4 被告らによる原告らに対する懐柔工作

(1)
隠蔽工作が発覚した後,保土ヶ谷警察署は,被告伊藤と相談し,何とか原告らをなだめすかそうとした。
 保土ヶ谷警察署の副署長と刑事課長が,発覚の翌日に2度にわたって原告ら宅を訪ねたのはその最初であるが,それ以降も,保土ヶ谷警察署は,被告伊藤との直交渉を仲介したり,同署幹部が「どうしても,警察からは 『正しい書類にしてほしい』と伊藤先生には言えない。正しく直すと罪になるんだよ。久保さんの方から,伊藤先生に頼んでくれないか。」,「よく相談してあるから,伊藤先生の件は,直接先生に聞いて下さい。」などと発言したりした。

(2)
他方,被告伊藤も,原告佐紀子に対し「悪いようにしないから,もう一度診断書を請求してくれ。」と述べたり,原告ら代理人(弁護士大野裕)に対し,「解剖をしたかしなかったかを争っても,お互い時間と費用がかかるだけである。診断書を『事故死』に書き変えて保険金満額が出るようにするから,どうか久保さんをなだめて欲しい。」などと述べ,原告らをなだめようとした。

5 
しかしながら,保土ヶ谷警察署や監察医被告伊藤は,久保幹郎に対する救護措置を取らなかった責任や虚偽の死体検案書を発行した事実を認めることは,警察及び監察医に対する国民に対する信頼を大きく損なうためどうしてもできかった。
 それがために,原告らは本件訴訟が起こす事態に至ったのである。


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