1.はじめに
2.驚きの地裁判決
3.平成18年秋―控訴審に向けての準備
DNA鑑定が否定されてしまったので、弁護団による控訴審活動は、DNA鑑定の検証に多くの労力が費やされた。
また、「運転日報」について、警察が裁判所に証拠として提出したものとは別の一通が存在することが確認された。「運転日報」は、土屋裁判長が「解剖を否定する事情」を退ける根拠とした重要書類の一つである。
4.一審判決の3つの特徴
一審判決を詳細に調べると、次の3つの特徴が顕著であることに気付かされる。
以下、一つ一つ見ていくことにする。
特徴1.監察医側主張の全面的採用
特徴1.監察医側主張の全面的採用の不当性
特徴2.警察官作成資料の無批判な採用
特徴2.「警察官作成資料の無批判な採用」の不当性
特徴3. 上記の特徴1・2を達成するための、幾つかの重要証拠の無視・曲解
一審判決は、県警と監察医の主張をほぼ全面的に認め、警職法3条1項の救護義務のみに事件を矮小化するものであったが、それは同時に、多くの歪みを生んでいる。幾つかの証拠の無視や曲解・歪曲である。
無視された重要証拠
曲解ないし歪曲された事実
などである。そして、これらの不自然さから「本件解剖は、司法解剖としては異例」としながらも、なお「司法解剖の事実を覆すには足りない」などとしている。
5.本田DNA鑑定
6.控訴審を終えて−厳然たる事実
したがって、
「破損した車両内で吐寫している久保幹郎氏を発見した保土ヶ谷署員らは、酔っ払いの末の自損事故と考え、覚醒してから事情を聴くため、保土ヶ谷署内に移送し保護した。
以上は、裁判で明らかになった証拠・証言から組み立てられている仮説である。これを崩すには、免許証をめぐる合理的な説明が必要である。
7.終わりに
私は、保土ヶ谷裁判の途中、戸部署容疑者銃殺疑惑裁判にも参加し、戸部二審判決の苦汁もなめた。
なぜ、保土ヶ谷の一審といい、戸部の二審といい、事実や証拠を平気で無視する判決が相次ぐのだろうか。この国の裁判制度は、根本的に変革が必要なのではないかと思う。
HP管理人・萩野谷敏明
保土ヶ谷事件裁判・控訴審判決まで、残り1ヶ月をきった。平成12年9月から続いた7年間の裁判も、ここでひとまず区切りをつけることになる。
私はこの7年間、原告の側に立ち、ほとんどの弁護士会議に参加し、原告・弁護士とともに証拠資料を解析し、準備書面に挿入する画像の制作に協力し、戴いた資料から、この「保土ヶ谷事件の記録」HPを作成してきた。
原告側の主張は、弁護団が裁判所に提出している準備書面を参照していただければ良いので、ここであえて繰り返すまでもないが、原告側のこれまの活動そのものを振りかえって、それぞれの主張の背景や経緯を概観しておくことは無駄ではないと思う。
事件の概要は、HPで触れているので、ここでは、繰り返さない。平成18年4月25日の横浜地裁判決から、この文章を書こうと思う。
昨年4月、関内の駅を降りた私は、裁判所に向かう道を「原告支援者の会」の仲間K氏と連れ立って歩いていた。私もK氏も、DNA鑑定までは覆る術もないから、そこからどれだけ裁判所が踏み込んでくれるのか、という話をしていた。
監察医が委嘱したTSL鑑定(私的鑑定)は、コンタミネーションを起こして判定不能に陥っていたばかりでなく、鑑定人自らが技量不足を認めていたので、地裁が採用するはずがないと思っていた。
もともと、どこかの現場にあった細胞(例:被害者の爪、付着した精液、切手の裏)から犯人を特定するようなDNA鑑定ではなく、鑑定試料は比較的豊富にあり、それが推定される久保幹郎氏のDNA型と一致するか否かの鑑定である。
提出臓器と久保氏のDNA型は、押田鑑定と本田鑑定合わせて6部位で異なり(通常は2箇所違えば本人でないとされる)、性別も血液型も異なっていた。これほど違っているのに、今更、久保氏と同一のDNA型、同一性別、同一血液型が出るわけがないのである。
それだけに、地裁判決が押田鑑定も本田鑑定も否定したことによって受けた衝撃は、原告と原告弁護士はもちろん、私にとっても極めて大きかった。
「神奈川県は北朝鮮か。DNA鑑定でニセ物が見破られると、今度はDNA鑑定そのものを否定する。我々は北朝鮮に住んでいるのか」
というのが、地裁判決を目にしたとき、私が受けた印象である。
それにしても、日本の司法とは何なのか。先に検察庁は、DNA鑑定が正しいものという前提で監察医を事情聴取した。その時、彼を不起訴にした理由は、臓器の保管状況がずさんで、監察医は手違いで他人のものを出したというものであった。
これに対して裁判所は、監察医はまさしく亡幹郎本人の臓器を提出し、DNA鑑定が正しく行われていないとして、これを否定した。
今、監察医は、自分は久保本人の臓器を出したが、万一、DNA鑑定が正しい(と裁判所が認める)なら、手違いで他人の臓器を出してしまったのである、という論法を使っている。
結局、DNA鑑定が行われようが、行われまいが、権力のメンツを守りたいという動機が、どこかで働いているとしか、思えないのである。
我々は、押田鑑定のPM法は、ずいぶんと研究もし、ある程度の知見を得ていたが、本田鑑定に書かれていることについては、当初、多くの知識を持っていなかった。そこで、DNA鑑定に詳しい今村弁護士に、私が協力するような形で資料の収集、分析、研究、検証が行われた。中西弁護士がDNA鑑定以外の部分の論理構成を再考し、大野弁護士が全体をまとめる形で控訴審に向けての準備活動が進んだ。
準備活動が著について間もない頃、中西弁護士が南原葬儀社を尋ね、草深・倉田の両氏に面会をした。その際、かつて地検の事情聴取に「遺体の胸腹部に縫合の痕があった」と証言していた倉田氏が、突然「当時の事は覚えていない」と言い出した。その上、遺体の納棺作業(縫合面にテープを貼り白装束を着せて棺に入れる作業は、遺体を受け取ってから、20〜30分かかるとした。この20〜30分という数字は、小巻巡査長が裁判所から鑑定処分許可状を受け取って解剖室に戻った時間8時35分との兼ね合いで重要である。
小巻巡査長は陳述書のなかで「私が解剖室に入った時、解剖台の上に遺体はなく、すでに車の中に入れられているようでした」と述べているから、縫合痕にテープを貼り、白装束を着せる時間約20分を考えると、8時15分には解剖は終わっていないとならない。監察医は、「遺体に最初にメスを入れた時間は7時40分」と証言しているので、解剖時間が30〜40分しかないことになる。もともと、一時間でも「そんなに短時間で、できるのか」と疑問が呈されていた解剖時間が約半分になったうえ、8時40分頃までかかったという従来の県警・監察医側の記録/証言と矛盾してしまうのである。
それだけではない、小巻巡査長による「8時35分には、解剖台の上に遺体はなかった」という陳述は、斉藤巡査部長の備忘録にある解剖時間8時40分から10時10分という記載と根本的に矛盾するのである。
横浜地裁が、8時25分、小巻巡査長に鑑定処分許可状を交付した事実は、第三者による記録なので、特に疑う理由がない。そうすると、小巻巡査長の陳述書を前提にすれば、伊藤監察医による7時40分から8時40分という証言も、斉藤巡査部長の備忘録にある解剖時間8時40分から10時10分という記録もおかしくなってくるのである。
結局、書類は、いくらでも作れる。いずれかが正しいのではなく、いずれもテキトーに書かれているのだろう。南原葬儀社は、今も警察の傘下で商売をしている会社だ。警察の意のままに書類が作成されていることは疑う余地がなかった。
ようやく、本田鑑定の全貌について我々が知見を得て、控訴趣意書の作成を目の前にしたとき、一審判決という「敵」が目の前にあった。「敵」は、みすぼらしく、ねじけていて醜かった。誰でも少々の理性と知性で、その愚は簡単に理解できるし、我々には充分な理論武装が出来ていたが、この「敵」は権威というヨロイで守られている。
ある日、今村弁護士が「判例時報」を机に叩きつけ、「何をもっともらしいことを言っているか、えらそうに」と怒ったことがある。私も、その勢いに言葉を失ったが、思いは同じであった。
そして、判定が難しいから即、判定できないという道理はない。判定が難しくとも、別の手法を用い工夫をして判定ができる場合はある。また、その逆に、判定が難しく、それを克服できずに判定ができなかった、という選択肢も当然のように存在する。
押田教授も、本田教授も、ホルマリンに浸かっている臓器だからといって鑑定を投げてはいない。当然、その困難さは計算に入れて鑑定をやっているのだから、裁判官が、ことさらのように「ホルマリンによる低分子化」のような、始めから分かりきっている理由を取り上げて、二人のベテラン法医学者による鑑定を否定するのは、いかにも「僭越」というものではないだろうか。
およそ、DNA鑑定の対象となる試料は、まともな状態の方が少ない。焼死体に残る僅かな焼け残りの細胞、土中に埋まった骨に付着している肉片、絞殺体の首に付着した他人の細胞などが鑑定の対象になる。
横田めぐみさんのニセ遺骨の鑑定が成功した理由は、日本で考えられているような火力の強いバーナーによる火葬ではなく、薪を使っての火葬だったため、なお鑑定に使える細胞が検出でき、南方で重火器に晒され死亡した兵士の遺骨鑑定に実績のある帝京大で成功したと聞く。
DNA鑑定と低分子化の関係の詳細については後述するが、何かが困難という理由で、あらゆる鑑定を否定していったらきりがないはずである。わけても押田鑑定は、横浜地裁が自ら委嘱した鑑定である。本田鑑定は、横浜地検が刑事捜査の過程で委嘱した鑑定である。いずれも、わが国で最高の装備を持つ法医学教室において、実績のある碵学によって中立の立場から行われた鑑定である。
もし、これを裁判で係争している当事者の一方が提出する鑑定をもって否定していったら、いったい、どうなるのだろうか。例えば、ある犯罪者が、被害者に抵抗されて現場に自分の皮膚か血液を残したとする。彼は警察の取調べや法廷で「現場に残された細胞のDNA型が君と一致した」と追及を受けるだろう。そこで彼は、できるだけ能力の低い会社に鑑定を委嘱し、「こういう理由で鑑定が出来ない。だから、地裁や地検が委嘱した鑑定が出来たはずがない」という根拠に使うだろう。
もし、科学的な鑑定を否定するなら、少なくとも同じレベルの経験や実績を持つ科学者が疑問を呈するべきであって、分野の違う裁判官が、まるで自分の都合のように何かの理由を取り上げて、大学の法医学教室で行われた鑑定を否定するべきではないはずである。
その聞き間違いが平成14年月4日の「電話(口頭)聴取報告書」に書き留められ、いつしか乙A12号として証拠化され、押田鑑定そのものの否定材料に使われたのである。
押田教授は、恐らく腹が立ったのだろう。「意見書」には、怒りの様子が滲み出ている。乙A12の内容を確かめる機会のなかった押田教授にとって、裁判所事務官の聞き間違いが、自分の鑑定そのものの否定に使われれば、無理からぬことだ。
また、判決文は、発色の薄いコントロールドットについて、「押田鑑定人は、肉眼では発色が認められたと強弁している」と批判しているが、これは「発色の強弱は肉眼で見て判定する」という意味であって、第三者が見ても分かるように「印画条件変更写真」を提出しているのだから、全く不当というほかない。
元々、第三者の臓器が混入している可能性があるなら、監察医はDNA鑑定に先立って、その旨を告げるべきであった。それが世の中の常識であろう。そのような説明努力は一切なく、提出臓器のIDカードともいうべき来歴書も出さず、DNA鑑定に先立って「提出臓器は久保幹郎氏のもの」と念書を入れた際にも、第三者臓器の混入可能性は、一切言っていなかったのに、DNA鑑定結果が出たとたん、第三者臓器の混入可能性を言い出すなど、まことに驚きというほかはない。
そもそも、鑑定試料は、心臓の他に混ざっているかもしれない小臓器片に対して行うものではない。監察医による「解剖時に摘出した心臓は、保存して持っています」という発言から裁判は始まった。だから、提出された心臓のど真ん中から細胞を採取すれば、例え第三者の臓器混入があっても鑑定は可能だ。
しかも伊藤監察医は証人尋問で、第三者の臓器混入の可能性を否定している。監察医が否定しているのに、その訴訟代理人が相変わらず「第三者の臓器混入の可能性」を主張し、県警がその尻馬に乗って同じ主張をし、そのまま控訴審は結審してしまった。
これは、監察医が臓器・ブロックを出さないで済む状態にあったのなら、成り立つ判断かもしれない。
しかし、事実は、そうではなかった。臓器・ブロックの提出は、当時の地裁裁判官の強い意志によって実現している。そして監察医は一貫して、臓器・ブロックの提出に消極的かつ拒否姿勢を取り続けた。ブロックの提出にいたっては、提出を拒む監察医に対して、裁判所が一方的に引渡し日を申し渡すという強い措置が講じられたのである。
監察医は、裁判所の求めに応じ、亡幹郎本人のものであれ、第三者のものであれ、臓器を提出せざるを得なかったのだから、判決文は当時の事情を反映していない。
HPに掲載している原告の平成13年2月の「意見書」を読まれたなら、既に提訴から半年が経つ状態で、原告がいかに臓器提出に焦慮していたかを理解していただけるものと思う。また、監察医側の「ブロック不提出の理由書(平13.5.21)」や、その後の「意見書(平13.7.27)」、「意見書補充(平13.8.22)」を読まれたなら、ホルマリン固定臓器よりもDNA鑑定がより容易なブロックの鑑定に、なぜ監察医が強く反対するのか理解に苦しむであろう。
監察医としては、どうしても臓器の提出を拒みきれないならば、非常に長期に渡ってホルマリンに着けている臓器、またはホルマリンにほとんど漬けずに腐敗が進んだ臓器を提出し、「鑑定不能」に追い込むつもりであったとしても、何らおかしくはない。
原告佐紀子は、葬儀の翌日(24日)、葬儀社社長・吉川明弘氏のもとに訪れ、解剖の有無について既に問題視している。また26日、山本副署長以下が久保家を訪れた際、遺族は「解剖はしたのか」と強い調子で詰問している。既に、この時に問題にしているのだから、判決文のこの判断は、これら証言やテープ録音を無視する全く不当なものだ。
我々市民は、通常、警察や監察医というものの確かさを信じて暮らしている。法律のもと、やるべきことはやってくれているはずだと思って暮らしている。もし、疑問をもったなら、少しずつ事実を積み重ねて、まずは相手の善意を信じ、その翻意・改善を促し、それが無理であれば、徐々に主張をエスカレートさせていくものだろう。
監察医の主張、また判決文による、この判断の裏を返せば、我々市民は、解剖が行われたかどうか、親族を失った当日さえも警察と監察医の行動を疑えということである。
一審判決が、司法解剖有りとした直接の理由は、
検視調書(乙A35)、
解剖立会報告書(乙A17)、
斉藤巡査部長備忘録(乙A19)、
死体検案書、
死体検案調書(乙A37)が「所定の手続き」で作られている、というものだ。
保土ヶ谷裁判は、煎じ詰めれば、これら警察・監察医側の書類と、久保幹郎に対する司法解剖の物証として提出されている臓器が他人のものであるというDNA鑑定が出たという事実と、どちらを優先的に考えるかにかかっている、とさえいえる。
一審判決が、司法解剖有りの証拠として採用した上記の書類は、いずれも、斉藤巡査部長または伊藤監察医の手によって作成されているものである。すなわち、一審の裁判官は、係争している当事者の一方である被告側が作成した書類を、頭から正しいものとして信用している。
我々は今日、警察によるデッチあげ捜査、虚偽の書類作成の事例を数多く見ているから、書類があったからといって、頭から信用することはしないはずである。いわんや裁判において、係争の中心に関わる文書の信憑性について吟味を欠くことは、著しく不当といわざるを得ない。
まず、上述のように、斉藤巡査部長の備忘録にある解剖時間8:00〜10:10PMは、小巻巡査長の陳述書と真っ向から矛盾する。
横浜地裁から8時25分に鑑定処分許可状が交付された事実を疑う理由はないから、8時35分に、解剖台の上に人は乗っていなかった。
そして南原葬儀社倉田氏の、縫合と白装束の着せ替え・納棺に20分〜30分かかるという話を前提とすれば、8時15分にも解剖台の上に人は乗っておらず、司法解剖が7時40分〜8時40分に行われたとする警察の説明や監察医の証言、そして、上記書証の掲載データも説得力を失う。
更に、市民病院で撮影された久保幹郎氏の頭部はうっ血し、死斑も顕著であったにも拘らず、検視調書も死体検案調書も「顔面蒼白」などと事実と相反する記載をしている(司法解剖医・田ノ浦氏の指摘のとおり。一審判決は、この指摘も無視した)。
また、検視調書も死体検案調書も、車両の破損については記載しながら、フロントガラスの記載については記載していないのである。
こうして、相互に矛盾し、事実を反映していない書類に、果たして信を置くことができるのだろうか。
上述の書類以外に、一審判決が司法解剖の証拠としてあげている南原葬儀社の運転日報すら、現在、裁判所に警察が証拠として提出したものの他に、別の一通が存在することが確認されている。
繰り返すが、書類はいくらでも作れる。そして、警察が組織的に、これらの正当性を主張する限り、彼らは他の警察官にも、それら書類の内容に沿う発言を強いることができるのである。
もし、そのことを疑う人がいるならば、保土ヶ谷事件の7ヶ月前に発生した神奈川県警の
「覚せい剤犯隠蔽事件」を思い起こしていただきたい。犯人隠避、証拠隠滅、狂言捜査、虚偽公文書の作成、ありとあらゆるウソで固めた未曾有の隠蔽工作の過程で、嫌々ながら組織のためにウソをついた警察官がどれだけ多いか、我々は知ることができる。
しかも、警察の説明によれば、免許証はウェスとして使っていたジャンパーの中から見つかっている。このジャンパーは、実況見分の際に撮影されていないだけでなく、ジャンパーがあったとする記述さえ、実況見分には書かれていない。(友人の警察官の説明によれば、あれば必ず撮影され、故人の遺品として書かれるという。)
すなわち、免許証は午前11時半に既に保土ヶ谷署にあって、午後1時20分に、保土ヶ谷署員がジープ内に免許を置いたと解釈しなければ、
との整合性がとれない。
免許証だけが移動し、本人が移動しないことは有り得ないから、久保幹郎氏は保土ヶ谷署に連行され、そこで死亡していると考えられる。遺体が勝手に現場に移動することも有り得ないから、誰かが現場に遺体を戻しているはずだ。
3つ以上に切り分けられた心臓が、一塊に復元することは有り得ない。よって、片方が真であれば、もう片方は偽であり、かつ、いずれも偽である可能性はあるが、両方が真だという選択肢は無い。
裁判所は、恐らく、非常に困ったのだろう。3つ以上の切片が、一塊の心臓以外に含まれている小臓器片と形が似ていないこともない、という曲解を持ち出し、この指摘を採用しなかった。もし、裁判所が言うように、3つ以上の切片が、一塊の心臓以外の小臓器片であるならば、この一塊の心臓は何なのか、なぜ解剖立会報告書添付写真に写っていないのか?当然すぎるような、この疑問に、判決文は何も触れていない。
裁判所の説明では、「A」=「A’のなかの幾つか」らしい。
では、Bは何なの?
裁判官は、ここで2つの致命的な誤りを犯している。一つは、本田鑑定は、解離試験で鑑定試料をBO型とは判定していない。いかなる解離試験もBO型という判定は不可能だ。本田鑑定は、血液型遺伝子検査でBO型と判定したのである。
解離試験は、岩に付着して乾燥した血痕などを対象に、犯罪捜査で使う血液型検査である。通常、我々が病院で受けるABO血液型検査のように、血球凝集反応を利用した検査であり、A,B,AB,Oの4つの選択肢(表現型)しかない。
一般にABO式血液型は「A=B>O」という「優性の法則」が働く。AとBはOに対して優性なので、B型の人も重病に陥り体力が衰えれば、血液型検査をしてもBの発現がなくOと判定されることは、ありうる。しかし、それはあくまで、血球凝集反応による検査のことだ。我々の遺伝子までは変わらない。
血液型遺伝子は、「分離の法則」が働く。ABO因子の組み合わせは、AA、AO、BB,BO,OO,ABの6つ(遺伝子型)である。血液型遺伝子検査でBB、BOの人は、血球凝集反応の人はB型と出るのである。Oの因子を持たないAB型の人が、BO型になることは、生物学的に有り得ない。つまり、地裁判決は、押田教授の言葉尻を捕らえて、血球凝集反応における現象のことを、血液型遺伝子の型の違いに持ち込んでいるのだ。
血液型における表現型と遺伝子型の違いは、高校の生物学でも教えており、裁判官は、高校の生物学レベルの致命的ミスを犯しているのである。
これに対し、一審判決は「高橋は、葬儀のために保土ヶ谷署を離れ、研究所(解剖室)には赴かなかったのであるから、研究所で現場を目撃したとの証言は虚偽である」とした。
一審判決の言うとおりであるなら、午後2時半には高橋氏は既に保土ヶ谷署を離れており、遅くとも3時過ぎ(つまり、原告佐紀子がまだ夫の死を知らない時間)に、久保宅に葬儀打ち合わせのため、訪れていることになる。
高橋氏が乗る北原葬儀社の霊柩車は、午後7時過ぎ、久保家の近くに駐車していた。これを吉川葬儀社にオフィスを貸している芝山商店の主が見て、店子の利益を考えて葬儀を吉川葬儀社に変えるよう遺族に奨めたことから、北原葬儀社から吉川葬儀社への業務引渡しがあったのである。
一審判決が、高橋証言を虚偽というなら、彼が2時半にどこにいたのかを指摘するべきであろう。そのような根拠も挙げず、時間経過も頭にいれず、でたらめな理由で不当に高橋証言を虚偽と決め付けていることは明らかである。
証拠乙A19は斉藤巡査部長の備忘録であり、久保氏の自損事故から約12時間を経過して書かれたものであり、乙A43は8月10日付けの写真撮影報告書であるから、事件から3週間近く経過して作成されたものである。
普通は、「幹郎はフロントガラスに頭部を激突させた」→「しかし、目だった外傷が無い」→「ならば、帽子をかぶっていたのだろう」と考える。
しかし、一審の裁判官らは「目だった外傷がない」→「ならばフロントガラスに頭をぶつけたはずがない」と考える。その場合、では「フロントガラスのひび割れは何によって生じたのか」という原因が分からなくなるから、その原因には、敢えて触れようとしなかった。
一審判決は、子供の運動着が、今、家にあるから、昼間、子供らは運動着を着けずにサッカーをしていたはずだというようなもので、時間経過が全く頭に入っていない不当なものである。
その場にいたわけでもない裁判官が、無理やり常識外れの想像で物を言っていることは、多言を要しない。
1)通常は写真化・記録化に努めるべきところ、心臓の写真3枚しか存在しない、
2)伊藤監察医は、司法解剖では通常、頭部を開いているが、今回だけは開いていない、
3)上記1)と2)について、合理的な説明がない、
4)わずか1時間程度の間に、司法解剖鑑定書の記載のような、詳細な解剖を行うことができたかも疑問、
5)解剖中、監察医が何度も手袋を取り替えてメモを取っていると証言しているが、立会い警察官2名は、これを見ていない、
1)〜4)までは、不自然さである。しかし、5)は完全な矛盾だ。
上記のみで司法解剖はなかったと断定するのは、確かに飛躍があるのかもしれない。
しかし、多くの司法解剖例のなかにあって、亡幹郎の件のみ異常が重なっているということは、それなりの理由があると考えなければならないはずである。
控訴審の裁判官には、是非、上述の小巻巡査長陳述書と斉藤巡査備忘録との矛盾、南原葬儀社倉田氏による、納棺作業には20分〜30分かかるという説明と、伊藤監察医が説明する7時40分〜8時40分までの解剖時間との矛盾について、考慮して貰いたいと思う。情景の説明に異常と矛盾があるばかりでなく、時間経過の説明にも矛盾があることを考え合わせれば、おのずと答えは定まってくるものと思う。
筑波大・本田教授のDNA鑑定は、@Y−STR検査、Aアメロジェニン検査、BX染色体検査、C常染色体STR検査、D第9染色体への血液型遺伝子検査の5種類の検査をしている。(DNA鑑定ではない解離試験を加えると検査は6種類。)
以上のことから、一審判決が客観的に物を見る目を失っていることは、誰の目にも明らかであろう。始めにストーリーを作り、それに沿わない事実・証拠は、徹底的に無視するか歪曲して判断している。横浜地裁が、何に突き動かされて、このような判決文を書いたのか、私には理解できない。
そして、@ABで全て女性という結果が出、CでDNA3部位に於いて異なる結果が出、DでBOという結果を出している。
このDが遺伝子型であり、遺伝子型がBBもしくはBOの人は、通常の血球凝集反応ではB型と発現することは既に述べた。
これだけ多数の検査をしていると、「試料の低分子化で正しいDNA鑑定ができたはずがない」みたいな認定は、もはやイチャモンつけの類いに聞こえるだろう。
しかしながら、裁判では、精緻な立証活動が必要なので、我々は、本田鑑定の内容の一つ一つについて、知識を得てゆかねばならなかった。
一審判決は、本田鑑定を採用しなった理由として、次の点を挙げている。
我々人体の細胞には23対の染色体があり、そのうちの一対が性染色体と呼ばれて男女の性別を決めている。この性染色体で、男ならXY,女性ならXXの組み合わせになっている。そこで、@Y−STR検査とAアメロジェニン検査は、Yを捜すという作業になる。
ところが、一審の裁判官は、重大な事実を見逃している。それは、BX染色体検査でXが2本検出され、積極的に女性という結果がでているから、単にYが見つからないという話ではない、という事実である。
それから、私的鑑定はコンタミネーション(他人の細胞の混入)を起こして、STRで3つも4つもアリールを検出し、アメロジェニンでも男と出てみたり、女と出てみたりしているのだから、その鑑定不成功に終わっている結果をとらえて他の鑑定を否定する材料に使うのは、そもそもが、おかしいのである。
私的鑑定の責任者さえ、技術力の差を認めているのに、あたかも私的鑑定と本田鑑定を同列であるかのように扱い、片方が不成功に終わり、もう片方が成功しているのはなぜだと結審してから疑問を発して否定するのは、インネンつけのような卑怯なやり口である。もし疑問があれば、裁判の審理中に本田鑑定人を呼んで問いただすべきであった。
私的鑑定が、本田鑑定と同じDNA部位について検査し、異なる結果が出て、それについて再現性が得られた、つまり、それだけ正確であったというなら話は別だが、コンタミネーションを起こしている以上、再現性が得られないのは当然であって、他の鑑定との比較の対象には、なり得ない。
では、押田鑑定と本田鑑定との間の違いは、何だったのか。
我々は、鑑定書をつぶさに調べ、それがマイクロダイゼクタの使用にあったことを見つけた。
マイクロダイゼクタは、臓器片から細胞の一つ一つを引っぺがし、外気に晒すことなく、そのまま吸引ピペットに入れてしまう装置であるから、異常な細胞と正常な細胞を選り分けることができるだけでなく、コンタミネーションが起こり得ない。
本田鑑定において、マイクロダイゼクタを使っている以上、「本田鑑定と押田鑑定、私的鑑定との間に差異をもたらすような、特段の事情は認められない」という一審判決は、完全な誤謬に基づく判断である。
「ホルマリンによる低分子化」は、当初から危惧されていた。押田教授が、ホルマリンを乗り越えられるのか、というのは、我々の大きな関心事だったので、乗り越えられたと知って喜んでいた。ところが、乗り越えられたはずの鑑定を、裁判所が「できたはずがない」と言って否定してしまった。
今から10年前であれば、ホルマリンに長期固定された臓器のDNA鑑定は、ほとんど不可能と言っても良かったかもしれない。しかし、それを固定観念のように捉え、ホルマリン固定されている臓器のDNA鑑定は、いっさいが不可能と決め付ける姿勢は、いかがなものか。
ホルマリン固定されている臓器は、世の中に山ほどあり、がん細胞研究など、病理学研究の要請から、近年、脱ホルマリンの技術が進んだことも事実であるからだ。日本の幾つかの大学や、アメリカの病院のサイトなどでは、脱ホルマリンをして、DNA/RNAを取り出すプロトコル(手順)を公開しているところもある。押田教授も、現在は完全に脱ホルマリンの技術開発に成功している。
なお、注目すべきは、本田鑑定で使用している検査部位が、かつては考えられなかったような低分子の領域で行われている、という事実である。
例えば、アメロジェニン鑑定は、X染色体が106bpのマーカーに反応、Y染色体が112bpのマーカーに反応することを利用する。女性XXであれば、106bpのバンド一本しかでないが、男性XYであれば、106bpと112bpの二本のバンドが出る。かつて270bp以上の領域で検査されていたDNA鑑定は、それよりはるかに低い分子量のところで実施されているのである。
したがって、「ホルマリンによるDNA低分子化」を言うのであれば、現在の科学では鑑定は不可能なほどに低分子化していたのか、それとも、低分子化はしていたが、現在の科学でなお可能な範囲内にあったのか、ということを問題にしなければならないはずで、ホルマリンによる影響を受けていたから、一切合財が駄目だというのは、余りにも乱暴すぎる見解なのである。一切合切が駄目なのであれば、押田教授も本田教授も、ホルマリンに浸かっている臓器を見ただけで鑑定を断ったであろう。
控訴審終えた今、次の3つの厳然たる事実が存在する。
@久保幹郎の臓器は、ついに提出されなかった。
A警察は、免許証に関する説明を一切しなかった。
B解剖を示す物証は、何一つ存在しない。
民事裁判は、監察医が「解剖の際、亡幹郎から摘出した心臓を持っている」という発言から始まった。実際、地検の事務官が平成12年1月、監察医の解剖室に赴いて、「久保幹郎54歳」と書かれた心臓入りビニール袋を撮影している。
監察医の説明では、このビニール袋から、タッパーに移し替えたものが裁判所に提出された。タッパー入り臓器とブロック片との間に、DNA型の矛盾はないので、少なくとも、東京医科大学からの臓器返却(平成11年12月)→地検事務官による「久保幹郎」ラベル付きビニール袋入り臓器撮影(平成12年1月)→地裁への提出(平成13年4月)の間に、臓器の取り違えは有り得ない。取り違えていれば、臓器とブロック片とのDNA型は異なってくる。
その後、この臓器は亡幹郎のものではないという押田鑑定、本田鑑定が世に明らかになった。
監察医が、最初に「手違い」で他人の臓器提出の可能性を示唆した時期は、本田鑑定が世に明らかになった翌月の平成16年4月、地検による事情聴取に際してのことである。
それから3年4ヶ月が過ぎた今、監察医から「このような過程でミスが生じました。提出したものは別人のものでした。実は、こちらが亡幹郎のものでした」という説明はなかった。
控訴審が結審した今、監察医の主張は、「自分は亡幹郎の臓器を出した。しかし、万一、本田鑑定が正しければ、手違いで他人のものを出したのでしょう」というものである。
そして、結果として亡幹郎の臓器は提出されていない。(一審判決のように、裁判所が、たとえ亡幹郎の臓器を提出したと認定しても、それは裁判官の想像でしかない。)
亡幹郎はどこかでIDLH(Immediately Dangerous to Life and Health:差し迫った生命と健康への危険)を迎えた。そのIDLHを迎えた場所が、三ッ沢の交差点にあったのか、保土ヶ谷署内にあったのか、その議論は分かれてくる。
いずれの場合でも、亡幹郎を保護すべき警察の過失責任は免れないはずだが、一貫して警察は、自らに責任はないという立場を取ってきた。
IDLHが三ッ沢の交差点にあったのなら、パトカー巡査による警職法3条1項の保護義務違反となり、この部分に関する一審判決のとおりとなる。
もし、IDLHが保土ヶ谷署内にあれば、亡幹郎は三ッ沢交差点で死亡して発見されているので、誰かが遺体を現場に戻したということになる。
IDLHが保土ヶ谷署内にあったという根拠は、午前11時の救急車出動、正午を挟んで行われた実況見分で発見されなかった免許証(及び車検証)が、午後1時半頃、車両が保土ヶ谷署に運ばれた直後、車両内から発見されたという警察の説明である。
この警察の説明はウソであり、署内にあった免許証(及び車検証)を車両内に戻したということでなければ、病院で身元不明体とされていること、実況見分で免許証が発見されなかったという事実との整合性が取れない。免許証だけが移動し、本人が移動しないということはないから、亡幹郎は保土ヶ谷署に連行され、そこでIDLHを迎え死亡しているはずである。
保土ヶ谷署連行説を補強する証拠が、事件当日、遺族に返却されなかった帽子が、後日返却された事実である。
この可能性の指摘は、一審段階から絶えず繰り返されたが、警察は一切、反論もせず、免許証に関する合理的な説明もせず、何ら言及してこなかった。
から組み立てられる、保土ヶ谷事件のもう一つのストーリーは、次のようなものである。
フロントガラスに頭部を強打していた久保氏の容態は、保土ヶ谷署員の予想を超えて悪く、午前3時頃死亡してしまった。
救急車を呼ばず死亡させてしまった責任追及を恐れた保土ヶ谷署員らは、夜が明ける前に遺体を現場に戻し、夜が明けてから第三者に死亡した状態で発見させることを考えた。
遺体を現場に戻す際、慌てた保土ヶ谷署員らは、免許証、車検証、帽子を車内に戻すのを忘れた。
車両が保土ヶ谷署に戻ってきたので、署内にあった免許証、車検証を車内に戻したが、帽子を遺族に返却するのは、なおも忘れた。
事故そのものは、犯罪との関連はないから司法解剖にはならない。よって、監察医のところで行政解剖で済ませば、外表検査だけで済むことから、保土ヶ谷署員らは、遺体を2時半、大学病院を選ばず、監察医の解剖室に運んだ。保土ヶ谷署員らは、そこで心筋梗塞という死体検案書を書いてもらった(高橋栄行氏が見た光景)。
このまま済むはずだったが、検事指揮(正確には警察による代行検視)が、行政解剖から司法解剖に切り替わった。(恐らく、斉藤巡査部長が、市民病院から県警本部捜査一課に電話をかけて報告した、そのフィードバック。)
司法解剖の手続きは、思いのほか手間取り、鑑定処分許可状の交付は8時25分までずれこんだ。その時、遺体は既に、吉川葬儀社社長を伴って来署した子息に宅下げされており、保土ヶ谷署にはなかった。
保土ヶ谷署員らは、やむなく、司法解剖があったことにする書類上の形式を整えた。」
これらは、相互に矛盾し、いくつかの点で事実を反映せず、他の司法解剖例と比べて極めて特異な状況を示している。
一審判決は、これらを無批判に採用したが、軍隊と並んで中央統制的官僚社会の典型である警察が、組織的に何かを隠蔽しようとした場合、ほとんどすべての人は身動きができなくなり、個人の善意は組織の倫理に転化され、誰もが唯々諾々として、あるいは嫌々ながら、上命に従っていく構造にあることは、神奈川県警の覚せい剤犯隠蔽事件が如実に示しているところである。
保土ヶ谷事件をめぐる警察官の数は多いが、中心にある人物は少ない。
我々は、これまで裁判に提出された書類の中から、事件との係わり合いを恐れて黙っている人、真実の全貌は明かせないが、わずかに良心の呵責を見せて、自ら体験した事実のみを述べている人の姿すら見て取れる。
結局は、これら供述証拠を取るか、物証を取るか、ということになるのであろう。
私は、今、高裁もDNA鑑定を否定するのではないかと危惧している。原告側が要請していた本田教授の証人尋問は、ついに実現しなかった。
もし、証人尋問が実現していれば、我々が到達した知見を、本田教授自身の口から聞くことができ、それが文書として残ったであろう。
しかし、それは「必要を認めない」という裁判所の判断で実現しなかった。
以上
裁判官は、本田鑑定の中味が充分に理解しているから、尋問の必要性を認めなかったのだろうか。
それならば、何も言うことはない。
しかし、もし裁判官が、いささかでも本田鑑定に疑問を持っているのなら、審理中に呼んで聞いて貰いたかった。
横浜地裁のように、後出しで疑問を投げつけて「信用できない」などと言わないで貰いたいと思う。
もし、裁判所に、何らかの理由で、どうあっても警察や監察医を守りたいという動機が働いていれば、どのような理屈でも持ち出すだろうし、どんな証拠でも無視するだろうから、原告に勝ち目は無い。我々は始めから、負ける戦いをやっている。
むろん、我々は一縷の望みをかけて裁判を闘った。やるべきことをやらないまま引く事はできなかった。裁判所の厳正な判断と天意を信じたい。
一方、警察は、いったい何を守るつもりで、裁判を戦ってきたのだろうか。真実を葬り去って組織を防衛しても、多くの国民が納得しなければ、警察はやはり信用を失い打撃を受けるのである。
私の7年間に渡る裁判活動も、まもなく終わる。私は最後の判定を、真実に目を向ける多くの国民の知性と理性に委ねたいと思う。
もちろん、事実に基づく判決、より保土ヶ谷事件の核心に迫る判決が出れば、それに越したことはない。
しかし、事実や証拠を無視し、あるいは歪曲し、真実から目を背けている判決は現実に存在する。
真実に立ち向かうのが恐ろしければ、真実から逃げるか、あるいは真実を否定してしまうしかない。それは何人も例外ではない。
その意味では、裁判も、保土ヶ谷事件をめぐる出来事の一つであろうと思う。このHPのタイトルを「保土ヶ谷裁判」とはせず「保土ヶ谷事件の記録」とした意図も、そこにある。
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