甲42号証・原告久保佐紀子陳述書(1)

原告による陳述書。
陳述書は2回横浜地裁に提出された。これはその第1回。(第2回ぶんは、ここをクリック→陳述書第2回

筆・HP管理人
※以下の文章は陳述書を自動読み取りソフトで読み取り、原文と照らし合わせて必要な修正を加えたものです。


平成16年9月5日
横浜地方裁判所第9民事部 御中

陳  述  書(1)
原告本人 久保佐紀子

 本年9月10日に斎藤清被告(以下,「斎藤さん」と言います。)の本人尋問が行われますが,被告神奈川県ら訴訟代理人の求めに応じ,斎藤さんに関連する事項について,時系列に従ってその要旨を下記のとおり陳述します。
 なお,本件事件全体に関する詳細は,私の本人尋問の際に供述するとともに,それに併せて詳しい陳述書を追って提出します。

 私は,平成9年7月(以下,本陳述書においては,原則として年の記載を省略しますが,特記のない限り,全て平成9年のことです。)当時,夫久保幹郎及び3人の子(子息3名、名称略)とともに5人で,横浜市泉区にて生活をしていました。
 夫は,学習教材などの販売代理店を営んでいました。
2 7月18日のこと
7月18日午後6時頃,追加注文した書籍が倉庫(同市戸塚区川上町所在)に届く予定があったため,夫は一人でジープに乗って自宅を出ました。
 当時,自宅には私と三男がおり,夫を見送りました。翌19日の午後1時から東京の自民党本部内の会議場で,煎茶道連盟の東京支部の研修会が予定されておりました。夫は煎茶道の家元もしており,その研修会の主催者の一人でした。19日の午前0時を回っても夫は帰宅しなかったため,心配でしたが,倉庫には電話が敷かれていなかったため連絡を取ることもできず,私は長男や三男とともに,同日午前3時頃,床につきました(なお次男は,当時,交通事故のため,湘南台病院に入院中でした。)。その間,どこからも電話はありませんでした。その頃,私たち家族に何も知らされないまま,夫はパトカーの警察官たちにジープとともに移動されていたのです。
3 7月19日のこと 4 7月20〜24日のこと
(1)
7月20日
  知人たちが帰り,親族それぞれが部屋に戻った翌20日の午前2時か3時頃,私は一人,夫の棺を開けました。私は,昭和59年頃,交通事故に遭い、ハンドルでみぞおちの下を打って意識をなくした経験があったため,「夫も苦しかっただろう。」と思い,白色の死装束の胸元を開き,夫の胸などをさすりながら,夫に話しかけました。そして夫は,お茶会などで緑色の着物を愛着していたため,それに着せ替えてあげようと思いました。しかし,夫の両手が腰の辺りに組まれており,数珠がかけられているのを見て,無理と判断して着せ替えは諦めました。そして,棺の中に,メガネや免許証を入れようか入れまいか思案しているうち,その間,どのくらいの時間が経過したのでしょうか。私は,この間,夫の遺体をずっと見ていましたが,何の傷跡もありませんでした。

(2)
7月21日
  同月19日夜の斎藤さんとの電話での話に従い,21日,甥(私の亡兄の長男)がジープを引き上げに保土ヶ谷警察署に行きました。
 21日午後,ジープを引き上げ終わった甥(私の亡兄の長男)から電話があり,「タイヤの様子が変だし,蜘妹の巣状のひび割れがあって,車内に吐瀉物が多量にある。フロントガラスに頭をぶつけて吐いているよ。事故現場が見つからないというのも変だ。斎藤さんに調べ直してもらうよう頼んだ方がいいよ。」などと言われたため,私はすぐ斎藤さんに電話を入れました。 電話口には女性が出ましたので,私が,「交通課の斎藤さんをお願いします。」と指名したところ,その女性は,「交通課に斎藤はいません。」と言ったので,「18日深夜の事故で,ジープの件なんですけれど・・・・・。」と告げたところ,その女性は,「それならば刑事課の斎藤です。」と答えました。 私は,不思議に思い,「なぜ刑事課が扱うのですか?」と尋ねたところ,「斎藤は前夜から当直でしたので。」と返事したので,私は受話器を塞ぎ,そばにいた姉たちに「刑事が,夜,当直する?」と聞き,これに対し皆が,「するでしょ。」と答えたのを覚えています。
 その後,斎藤さんが電話口に出たので,私は,「ジープを引き上げた甥から電話があって,車内に吐瀉物があるし,事故を詳しく調べ直してくれとの電話があったので,どうか,もう一度徹底的に調べ直してくれませんか?」などと訴えたところ,斎藤さんは,しばらく無言で,その後,それまでのむしろ横柄とも言える言葉づかいが急に丁寧になり,「ああ,そうですか………。それならば,車をもう一度警察に戻していただけますか?」などと答えたので,奇異に感じたことを覚えています。
 私は,その会話の後,直ぐに甥(私の亡兄の長男)に電話し,「ジープを警察に戻してくれと言われたんだけど,何時運んで貰える?」と尋ね,結局,甥が,24日にジープを保土ヶ谷警察署に届けることになりました。その際,私は甥に対し,「車を返す時に,中にお父さんの帽子が落ちているはずだから,車の中の物全部を持ち帰って来てくれる?」と頼みました。

(3)
7月22日
  22日深夜,一時退院していた次男が,友だちの車に乗って,友だちと一緒に事故現場を探しに出掛けました。
 そして次男は,三沢上町交差点付近の聞き込みをして,『笹寿司』の女将さんと三菱自販の課長さんから話を聞いて帰ってきました。三菱自販の課長は,「そのことなら,私の部下がよく見て知っている。今は夏休み中で連絡がつかないが,後日,ここにお母さんから電話を寄こすように。」と言って,名刺を下さったそうです。  

(4)
7月23〜24日
@
夫の通夜は23日に,告別式は24日に,戸塚斎場にて執り行われました。
A
甥(私の亡兄の長男)は,24日,斎藤さんの21日の指示に従い,一度引き上げたジープを保土ヶ谷警察署に届けました。
 その時,斎藤さんは,「事故現場だ。」と言って甥を案内し,大池通りの電柱の辺りから『笹寿司』のところまで歩いて甥を案内して,『笹寿司』の前で,「分かっているのはここまでなんだけど,遺族は納得しないだろうな。」と言ったそうです。
B
同日(24日)夜,甥(私の亡兄の長男)は,私が持ち帰るよう頼んでいたジープの中のものを紙袋に入れて私の自宅に届けてくれました。紙袋の中には,靴・ジャンパー・教材の時計(子供用の玩具)・タバコ・ライターなどが入っていましたが,帽子はありませんでした。
 甥は,畳んだままの,埃だらけのジャンパーを手に取って,「これは着ていない。この上に吐いていて,そこからこぼれた吐瀉物が車の中にもあった。このジャンパーは助手席との間にあった。」と言いました。私がそのジャンパーを見ると,前ボタンは全部留めてあり,前身ごろに多量の吐瀉物の跡がありました。綺麗に畳まれたままのジャンパーを裏返して開くと,長年座席の下に入れていたことが判るように後身ごろの畳み皺には綿埃がぎっしりとこびり付いていました。靴にも吐瀉物が付いていました。
5 7月25日のこと
(1)
その後の25日昼頃,私は,私の妹の車で,妹と二人で,甥(私の亡兄の長男)が斎藤さんに「事故現場だ。」と言われた場所を確認しに行きました。

(2)
その後,帰宅し,午後8時30分頃,三菱自販に電話したところ,夏休み中のため連絡がつかずにいた平岩(仮称)さんと電話で話すことができました。平岩さんは,「僕がジープを見ました。」と言うので,私は,「『笹寿司』の女将さんも目撃されていたのですが,どなたも通報してくれず,主人がかわいそうで・・・・・。」となじりにも似た言葉を言ってしまいました。すると平岩さんは,私の言葉に驚き,「エー!警察から何も聞いていないのですか?僕が警察に110番通報しましたよ。するとパトカーが来て,パトカーの警察官が,交差点にいた御主人の車をホンダの前に移動したのですよ。」と言いました。私はびっくりして,「詳しいことを聞きたいので,遅いですが,すぐに伺いますので,待っていて下さいますか?」と尋ねたところ,平岩さんは了解してくれました。
 私は,平岩さんの話を聞き,手は震え,背中に冷たいものが走りました。
 なんて恐ろしいことを・・・・・。私はその場で直ぐに,保土ヶ谷警察署に電話をして,斎藤さんを呼び出しましたが,電話口に出た男性の警察官が,「斎藤は,今,署にはいません。」と言ったので,私は,「折り返し電話下さい。ジープの件の久保です。」と言ったところ,すぐに斎藤さんから,私の自宅へ電話がかかってきました。私が斎藤さんに,「パトカーが出ていたじゃないですか。よくも,騙したわね。知ってたんでしょ。」と言うと,斎藤さんは,「ウーン。」と言って押し黙ってしまい,何も言えなくなってしまいました。斎藤さんが私たちに,「通報がない。」などと言っていたことは,全て嘘だったのです。

(3)
その後,私は,妹の車で,長男と妹の3人で平岩さんに会いに出掛けようとしました。
  出掛け際,吉川葬儀社の事務所の灯がまだ点いていたので,平岩さんとの電話で警察に騙されていたことを知った私は,吉川葬儀社に駆け込みました。
 「パトカーが出ていたのに,出ていないと警察に騙されていた。心筋梗塞も嘘だと思う。」などと吉川(仮称)さんに言ったところ,吉川さんは,区役所に届けた検案書のコピーを見せてくれました。検案書を初めて見ましたところ,「死因・心筋梗塞,解剖・有」と,驚く記載がありました。目が点になりました。監察医伊藤順通の印がありました。解剖もしていないのに何故この医師はこのような嘘を書くことが出きるのかと,強い衝撃と憤りを感じました。

(4)
夜半過ぎ,平岩さんとの面談を終えて自宅に戻ると,私たちが出掛けた直後から,ひっきりなしに保土ヶ谷警察署から電話が自宅に入っており,留守番をしていた私の長姉らが応対をしていました。長姉によれば,最後の電話は零時にあり,「明日(26日),自宅に事情説明に伺います。」との伝言でした。
 保土ヶ谷警察署内が蜂の巣をつついたような状況であることが電話口から感じとられたと応対した長姉は言っていました。
6 7月26日以降のこと
(1)
翌26日午前中,保土ヶ谷警察署の山本副署長,土屋刑事課長の二人が自宅に来て,私,3人の息子,夫の長兄,私の長姉・次姉夫婦,私の三姉・四姉,私の妹,その他親族が応対しました。しかし,何を聞いても間接的な答えなので,私は,「直接本人たちを連れて出直して下さい。」と言って,その旨了解を得たうえで,お引き取り願いました。
 その日(26日)の午後3時頃,山本副署長から電話があり,「当人たちは連れていけない。」と言われたので,私が,「話が違うではないですか。」と言ったところ,副署長は,「人払いをしていただけますか。あんなに大勢いたら話せない。奥さんとお兄さんだけにしてもらえますか。」と言うので,了解しました。
 そして同日(26日)の夕刻,保土ヶ谷警察署の山本副署長・土屋刑事課長に伴われ,斎藤さんは,青地・村井両警察官とともに自宅に来ました。斎藤さんは私のとなりで背中を丸め,テーブルの下に頭を埋めるほどのうちひしがれた状況で蚊の泣くような声で,二言三言,力なく答えました。

(2)
8月4日,保土ヶ谷警察署から再度ジープを引き上げましたところ,助手席に,探していた夫の帽子が置いてありました。車中のもの全てを甥(私の亡兄の長男)が21日に引き上げたうえで警察にジープを届けた事実を知らぬ保土ヶ谷警察署に,この件を問い合わせたところ,「車の中にありました。」とまた嘘を言いました。

(3)
7月26日以降は,私どもは,斎藤さんには一度も会わせて貰えませんでした。署長にも会わせてくれず,その度ごとに対応する山本副署長に対して,「警察が汚した嘘の検案書は提出できません。警察の方で正しく綺麗な検案書に直して下さい。」などと要求し続けて来ました。
 返って来た副署長の言葉は,「伊藤医師には自分からは言えない,久保さんの方から頼んで欲しい。」と困惑の様子で答えるだけでした。私は,「私が頼む必要など無い。不正をした者が正すのが筋です。」と言うと,山本副署長は,「考えさせてください。」と言い,2〜3回同じ問答が続きましたが,「申し訳ないが,どうしても伊藤医師には言えない。」と言い残し,山本副署長は転勤になりました。
 その後,この件は和田警務課長に引き継がれたため,私は警務課長に「署長と斎藤さんに会わせて下さい。嘘で汚れた書類を綺麗にして下さい。」などと引き続き要求をして来ました。その後,10月8日,和田警務課長から電話があり,「斎藤に会わせることは出来ないが,署長が会う。」との連絡が入り,同日,伊藤署長に会いました。このときは親族の他に司法書士の寺田氏(仮称)を伴いました。
 この間の保土ヶ谷警察署幹部との一連の折衝については,記録が残っております。追って詳細に陳述いたします。
7 終わりに
 以上,本件事件直後の出来事について,斎藤さんに関連する事項を中心に真実を記しました。
 この間の一連の事実全てに,斎藤さんは関与しております。私は,斎藤さんには,ぜひ私の陳述書を読んでいただきたいと思います。そして本年9月20日の尋問の際には,警察組織の不始末を隠蔽するのではなく,真実を述べて欲しいと切に願っております。今からでも決して遅くはありません。斎藤さんの人間としての良心を,私は信じています。
以 上


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