甲42号証・原告久保佐紀子陳述書(1)
原告による陳述書。
陳述書は2回横浜地裁に提出された。これはその第1回。(第2回ぶんは、ここをクリック→陳述書第2回)
筆・HP管理人
※以下の文章は陳述書を自動読み取りソフトで読み取り、原文と照らし合わせて必要な修正を加えたものです。
平成16年9月5日
横浜地方裁判所第9民事部 御中
陳 述 書(1)
原告本人 久保佐紀子
本年9月10日に斎藤清被告(以下,「斎藤さん」と言います。)の本人尋問が行われますが,被告神奈川県ら訴訟代理人の求めに応じ,斎藤さんに関連する事項について,時系列に従ってその要旨を下記のとおり陳述します。
なお,本件事件全体に関する詳細は,私の本人尋問の際に供述するとともに,それに併せて詳しい陳述書を追って提出します。
記
- 1
- 私は,平成9年7月(以下,本陳述書においては,原則として年の記載を省略しますが,特記のない限り,全て平成9年のことです。)当時,夫久保幹郎及び3人の子(子息3名、名称略)とともに5人で,横浜市泉区にて生活をしていました。
夫は,学習教材などの販売代理店を営んでいました。
2 7月18日のこと
- 7月18日午後6時頃,追加注文した書籍が倉庫(同市戸塚区川上町所在)に届く予定があったため,夫は一人でジープに乗って自宅を出ました。
当時,自宅には私と三男がおり,夫を見送りました。翌19日の午後1時から東京の自民党本部内の会議場で,煎茶道連盟の東京支部の研修会が予定されておりました。夫は煎茶道の家元もしており,その研修会の主催者の一人でした。19日の午前0時を回っても夫は帰宅しなかったため,心配でしたが,倉庫には電話が敷かれていなかったため連絡を取ることもできず,私は長男や三男とともに,同日午前3時頃,床につきました(なお次男は,当時,交通事故のため,湘南台病院に入院中でした。)。その間,どこからも電話はありませんでした。その頃,私たち家族に何も知らされないまま,夫はパトカーの警察官たちにジープとともに移動されていたのです。
3 7月19日のこと
- (1)
- 翌朝(7月19日の朝),私たち家族が起床しても夫は帰宅していませんでした。午前11時までに帰宅しないと同日の研修会に間に合わないので,私たちは気をもんで夫の帰りを待ちましたが,夫は帰宅しませんでした。すると,同日午後3時頃,自宅前の酒店(『芝山酒店』仮称)の奥様が,私どもの自宅に来て,「保土ヶ谷警察署の斎藤さんまで電話を入れて下さい。何か,御主人,事故を起したみたいよ。」と言って,電話番号が書いてあるメモ用紙を私は渡されました。
私は,「どうしてウチにでなく,お宅に?」と芝山さんの奥様に尋ねたところ,芝山さんの奥様は,「私も,『久保さんの奥さん,おられますよ。』と警察に言ったんだけど,『いいから,奥さんに伝えて。』と言われた。」と答えました(なお後日,芝山酒店の奥様から,このとき斎藤さんは,わが家の家族構成―――子どもたちが学生であること,夫の職業のこと,私の仕事のことなど―――を詳しく尋ねていたと知らされました。)。
早速,私は自宅の電話から,メモ用紙記載の電話番号に電話を入れたところ,直接,斎藤さんが出ました。斎藤さんは,「旦那,夕べ帰ったか?」と尋ねたので,私は,「帰っていませんが。」と答えました。続けて斎藤さんは,「旦那,ジープ乗っているか?」・「頭,禿げているか?」などと尋ねたので,私は,「乗っています。」・「本人は気にしていますが,それほどではありません。」と答えました。
のんびりとした斎藤さんの物言いに,私は,「何なんですか?」と急かすように言ったところ,斎藤さんは,「事故を起こしたみたいだ。」と言うので,「今,どこにいるんですか?」と尋ねたところ,斎藤さんは,「保土ヶ谷署の霊安室だ。」と答えたので,私はあまりに突然の話に腰を抜かし,「すぐ行きます。」と答え,その場にへたりこんでしまいました。すると,斎藤さんは,「いずみ野線にいずみ中央駅から乗って,星川の駅で……‥。」などと本当にのんびりとした口調で長々と話し続けるので,私は途中で受話器を置きました。
そして,リビングで横になっていた三男に「お父さん,死んだ!」と告げ,三男とともに大急ぎでタクシーにて保土ヶ谷警察署に駆けつけました。迎えのタクシーが来る間に,私は山梨にいる私の長姉に電話し,夫死亡の事実を知らせました。
- (2)
- 私と三男が保土ヶ谷警察署に着いたのは,同日(19日)午後4時前でした。斎藤さんが保土ヶ谷警察署で応対しました。
斎藤さんは,「皆,学生で大変だろう。病死だと保険も安くて大変だろうけど,頑張るんだよ。御主人は心臓悪くなかったか?」などと,とても優しい口調でした。私が,「悪くないです。」と答えると,斎藤さんは,「何でもいいから,心臓のことで御主人が今まで何か言っていたことは無いか?」と執拗に心臓のことばかり尋ねられました。
私は,その時,同年6月30日に行われた甥の結婚式のことを思い出しました。実はその結婚式に夫は招待されたのですが,生まれてから一度も会ったことのない甥で,しかも式場は遠方(大阪)でもあり,欠席の口実として夫は,「心臓がちょっと。」と嘘をついたと言うのです。夫からこのやり取りを聞いた私は,身内に嘘の病気を言い訳に使うと本当に心配するといけないと思い,すぐに夫の次兄(=結婚する甥の父)に「心臓が悪いと言ったのは嘘だからね。」とお詫びの電話入れたことがあったのです。その出来事を私は思い出し,このエピソードを斎藤さんに告げつつ,「だから心臓は悪くないです。」と言いました。斎藤さんは,「それだけ聞けばいいから。」と言って,窓から駐車場の方の様子を覗いながら,私に,ジープの鍵と裸のままの免許証と小銭入れとを差し出し,その後,私と三男に対し,「ご対面を。」と言いながら,案内のため席を立ちました。
安置所に向かう途中,警察署の駐車場に夫のジープが停めてあるのに私は気付きました。フロントガラスが蜘味の巣状にひび割れているのが目に止まりましたので,私は,「あのフロントガラスは?」と驚いて尋ねると,斎藤さんは,「頭をぶつけている。」と答えました。また私は,ジープの前輪左側タイヤの三方が直線状に刃物で切ったような感じであったので,「あのタイヤは?」と尋ねたところ,斎藤さんは,「バーストしている。」と歩みを止めずに答えながら,私どもを安置所に案内しました。
- (3)
- 私と三男が安置所に入ると,夫が横たわっているのが目に入りました。その頭の横に簡素な祭壇があり,足元に置かれた透明なビニール袋の中に衣類が入れてありました。私は,夫が常日頃から頭髪のことをとても気にしていたため,夫の頭にタオルを巻いてあげようとしていたところ,斎藤さんに,「まだ向こうで詳しく聞きたいから早く・・・・・。」と急かされて,タオルの端を結わく暇も与えられぬまま,すぐ交通課の事務室に戻されました。夫との対面は,午後4時過ぎから,ほんの1〜2分間のことでした。
- (4)
- 私と三男は,斎藤さんと一緒に交通課の事務室に戻りました。私は,事故の相手も怪我しているのではないかと思い,「相手の方は?パトカーや救急車の通報は無かったのですか?」と尋ねました。すると,斎藤さんは,
「それが・・・・・。夕べから,保土ヶ谷署管内,通報は一件も無いんだよ。」と答えました。
私が,「事故現場はどこですか?」と尋ねたところ,斎藤さんは,「それが,事故現場が見つからないんだよ。」と答えました。私が,「じゃあ,どこで発見されたのですか?」と聞くと,斎藤さんは,「それが三沢上町のホンダクリオ前だが,不思議なんだが,そこは事故現場ではないんだよ。」と答えました。続けて斎藤さんは,「三沢近辺,限なく探したが,事故現場が見つからない。車の中で亡くなって発見されて署に来た。」・「病院に行っていないので,医者に見せなくてはいけない。葬儀社に送らせるから,息子さんと先に帰って家で待ってなよ。」などと言い,その後,三男を退去させた後,私のもとへワープロを持った警察官一人を呼び,斎藤さんは,「調書にするから,さっきのことを話してくれ。」と言って,斎藤さんともう一人の警察官とで私の調書を作成しました。調書が出来あがると斎藤さんから署名を求められましたので,私はサインをして栂印を押しました。私は老眼鏡を持って行かなかったため,調書を読まないままにサインをしました。
調書作成終了の直後,自宅にいた長男から保土ヶ谷警察署に電話が入り,私が電話口に出ると,「何時に迎えに行ったらいいの?」と聞くので,「今帰るところで,葬儀社の車で送って貰えるから来ないでいいよ。お父さんの布団を敷いて待ってて。」と私は答えました。その電話の最中,斎藤さんは,腕組みをしながら悩んでいる表情で,白熊のようにデスクの前を行ったり来たりして考え込んでいましたが,私が電話を終えると,「もしかしたら,司法解剖するかも知れないから,ここにサインをしてくれないか。」と言ったので,私は,差し出された用紙にサインをしました。読んでいないので,その記載内容は詳しくは覚えていませんが,縦書きの書類であったことだけは記憶にあります。私がサインを終えると,「別に遺族の承諾はいらないんだけどな・・・・・。」と斎藤さんはつぶやきながら,その用紙を受け取りました。サインを終えたのは,同日(19日)午後6時30分頃のことです。
- (5)
- その後,斎藤さんは,私と三男を葬儀社の車のところまで案内してくれ,私と三男は葬儀社の車に乗り込みました。すると斎藤さんは,車内にいた私に,ビニール袋に入った夫のグレーのズボンとグレーのTシャツとトランクスとを手渡しました。
私と三男が葬儀社の社員(その方の苗字が「高橋」であることは,後日,知りましたが,以下,この陳述書では「高橋さん」と言います。)運転の車に乗って保土ヶ谷警察署を出た時刻は,同日(19日)午後6時30分過ぎです。私と三男が午後4時前に保土ヶ谷警察署に着いて以降,午後6時30分過ぎに同署を出るまでの間,斎藤さんは,私の面前から消えることは一度もありませんでした。
- (6)
- 高橋さんに車で自宅まで送ってもらう途中,以前住んでいた川上町辺りにさしかかった時,私は保土ヶ谷警察署の安置所で夫の頭に巻こうとしたタオルの端を結わいていないことを思い出し,タオルが外れるとかわいそうだと思い,高橋さんに,「頭に巻いたタオルが外れないように結んで欲しい。」とお願いすると,高橋さんは車内電話でその旨を指示してくれました。
- (7)
- 私と三男は,同日(19日)午後7時前,自宅に到着しました。まだ完全には暗くなってはおらず,玄関前に長男が一人ぽつりと立って待っているのが目に入ったのが,記憶に残っています。私が車から降りると,長男は,「あれ。お父さんは?」と尋ねたので,私は,「お父さん,病院に行っていないから,医者に見せなくちゃいけないんで,後になるんだって。」と答えました。
私が自宅に入ろうとすると,高橋さんも続いて入ろうとするので,私は,「何で入るんだろう?」と思いました。私は,高橋さんは私と三男を送るためだけに来たと思っていたので,家にあがろうとしたのが不思議だったのです。高橋さんは,私どもの自宅のリビングに入り,床に座り込んで,アタッシュケースを開いて,葬儀の打ち合わせの準備を始めました。そして携帯電話で電話をかけ,「心筋梗塞,午前3時だったよね?」と確認していました。それを聞いて,そばにいた私と親族(私の次姉夫婦,夫の長兄,私の妹ほか多数。)は,皆,一様に,「エー,心筋梗塞!」と驚きの声をあげました。
その後,高橋さんは戸塚斎場に電話を入れて,21日と22日の斎場確保をしました。その頃,芝山酒店の御主人と奥様が私どもの自宅に来て,「葬儀だったら,目の前の吉川葬儀社(仮称)がいいよ。知らないところよりは便利だから,こちらに頼んだら。」と勧めました。私は途中まで話が進んでいる故,高橋さんに変更を言い出しにくかったため,芝山酒店の御主人に葬儀社変更の話を頼みました。すると芝山酒店の御主人は外へ出て行き,ほどなく吉川葬儀社の社員と名乗る男性が私の自宅にいた高橋さんのところまで来て,変更の件を交渉していました。
高橋さんは,「うちは一番ワリの悪いところをしたんですよ。」と言っていましたが,吉川葬儀社の社員は,「分かっています。申し訳ございません。」などと丁重に詫び,高橋さんも了解したので,私は高橋さんを見送り,お帰り頂きました。
その直後,私は,先程高橋さんが携帯電話で聞いていた死因を確認するため,甥(私の亡兄の長男)の携帯電話を借りて,斎藤さんに電話を入れたところ,直接斎藤さんが電話口に出ました。私が,「今,葬儀社の方から『心筋梗塞・午前3時』と伺いましたけれど,これで間違いないんですか?」と尋ねたところ,斎藤さんは,「そうだね・・・・・。心筋梗塞だった。」などと答えました。私は,司法解剖の書類にサインして斎藤さんに渡して来たのを思い出し,斎藤さんに,「解剖はしないで済んだのですね?」と尋ねたところ,斎藤さんは,「そうだね。しないですんだ。」と答え,続けて「ところで,久保さん,もう誰もジープに乗らないだろうから,警察の方で廃車にしておこうか?」と言いました。私は斎藤さんの申し出に対し,「そちらで廃車にできるんですか? 結構傷んでいたので,もう乗れないですからね。お願いします・・・・・。」と言い掛けた時,そばにいた甥(私の亡兄の長男)が,「俺が取りに行く。」と言ったため,私は斎藤さんに,「そのままにしておいて下さい。」とお願いしました。私が斎藤さんに,甥の携帯電話を借りてこの会話をしたのは,同日(19日)の午後7時30分頃です。
私が斎藤さんと話をしている間,自宅の固定式電話に高橋さんから,「保土ヶ谷署に遺体を引き取りに行くように。」と電話が入りましたので,私は長男に対し,引き取りに同行するよう言いました。
- (8)
- 長男が吉川葬儀社の社員2名と一緒に,夫の遺体引き取りのために自宅を出発したのは,同日(19日)午後7時30分過ぎのことです。
私は,そのまま自宅の玄関前で夫の帰宅を待っていました。午後8時20分過ぎ,夫の遺体が自宅に戻って来ましたが,自宅に入る前に吉川葬儀社の事務所の中で,布製の棺に移す作業が行われました。私は,その移し換えの場には行かず,長男に対し,「お父さんの頭に布を巻いて貰うように。」と頼み,長男を棺の移し換え作業に立ち合わせました。
その時,山梨に住んでいる私の長姉から電話が入ったため,私が,訃報を聞いた知人や親類でごった返していた自宅の中に戻ったところ,つけっ放しのテレビにはコマーシャルが流れていました。そしてデジタル時計を見たところ,「20時30分」を表示していたのを記憶しています。長姉は,翌日(20日)にその長男の妻(浅野弘子さん:仮称)の一周忌が予定されており,その法要があったため,夫のもとにかけつけることができず,私が自宅に戻る時刻を見計らって,電話を寄こしてくれたのです。
夫の遺体は,布製の棺に入れ替えられ,同日(19日)午後9時過ぎに自宅に運びこまれ,十畳の日本間に安置されました。
4 7月20〜24日のこと
- (1)
- 7月20日
知人たちが帰り,親族それぞれが部屋に戻った翌20日の午前2時か3時頃,私は一人,夫の棺を開けました。私は,昭和59年頃,交通事故に遭い、ハンドルでみぞおちの下を打って意識をなくした経験があったため,「夫も苦しかっただろう。」と思い,白色の死装束の胸元を開き,夫の胸などをさすりながら,夫に話しかけました。そして夫は,お茶会などで緑色の着物を愛着していたため,それに着せ替えてあげようと思いました。しかし,夫の両手が腰の辺りに組まれており,数珠がかけられているのを見て,無理と判断して着せ替えは諦めました。そして,棺の中に,メガネや免許証を入れようか入れまいか思案しているうち,その間,どのくらいの時間が経過したのでしょうか。私は,この間,夫の遺体をずっと見ていましたが,何の傷跡もありませんでした。
- (2)
- 7月21日
同月19日夜の斎藤さんとの電話での話に従い,21日,甥(私の亡兄の長男)がジープを引き上げに保土ヶ谷警察署に行きました。
21日午後,ジープを引き上げ終わった甥(私の亡兄の長男)から電話があり,「タイヤの様子が変だし,蜘妹の巣状のひび割れがあって,車内に吐瀉物が多量にある。フロントガラスに頭をぶつけて吐いているよ。事故現場が見つからないというのも変だ。斎藤さんに調べ直してもらうよう頼んだ方がいいよ。」などと言われたため,私はすぐ斎藤さんに電話を入れました。
電話口には女性が出ましたので,私が,「交通課の斎藤さんをお願いします。」と指名したところ,その女性は,「交通課に斎藤はいません。」と言ったので,「18日深夜の事故で,ジープの件なんですけれど・・・・・。」と告げたところ,その女性は,「それならば刑事課の斎藤です。」と答えました。
私は,不思議に思い,「なぜ刑事課が扱うのですか?」と尋ねたところ,「斎藤は前夜から当直でしたので。」と返事したので,私は受話器を塞ぎ,そばにいた姉たちに「刑事が,夜,当直する?」と聞き,これに対し皆が,「するでしょ。」と答えたのを覚えています。
その後,斎藤さんが電話口に出たので,私は,「ジープを引き上げた甥から電話があって,車内に吐瀉物があるし,事故を詳しく調べ直してくれとの電話があったので,どうか,もう一度徹底的に調べ直してくれませんか?」などと訴えたところ,斎藤さんは,しばらく無言で,その後,それまでのむしろ横柄とも言える言葉づかいが急に丁寧になり,「ああ,そうですか………。それならば,車をもう一度警察に戻していただけますか?」などと答えたので,奇異に感じたことを覚えています。
私は,その会話の後,直ぐに甥(私の亡兄の長男)に電話し,「ジープを警察に戻してくれと言われたんだけど,何時運んで貰える?」と尋ね,結局,甥が,24日にジープを保土ヶ谷警察署に届けることになりました。その際,私は甥に対し,「車を返す時に,中にお父さんの帽子が落ちているはずだから,車の中の物全部を持ち帰って来てくれる?」と頼みました。
- (3)
- 7月22日
22日深夜,一時退院していた次男が,友だちの車に乗って,友だちと一緒に事故現場を探しに出掛けました。
そして次男は,三沢上町交差点付近の聞き込みをして,『笹寿司』の女将さんと三菱自販の課長さんから話を聞いて帰ってきました。三菱自販の課長は,「そのことなら,私の部下がよく見て知っている。今は夏休み中で連絡がつかないが,後日,ここにお母さんから電話を寄こすように。」と言って,名刺を下さったそうです。
- (4)
- 7月23〜24日
- @
- 夫の通夜は23日に,告別式は24日に,戸塚斎場にて執り行われました。
- A
- 甥(私の亡兄の長男)は,24日,斎藤さんの21日の指示に従い,一度引き上げたジープを保土ヶ谷警察署に届けました。
その時,斎藤さんは,「事故現場だ。」と言って甥を案内し,大池通りの電柱の辺りから『笹寿司』のところまで歩いて甥を案内して,『笹寿司』の前で,「分かっているのはここまでなんだけど,遺族は納得しないだろうな。」と言ったそうです。
- B
- 同日(24日)夜,甥(私の亡兄の長男)は,私が持ち帰るよう頼んでいたジープの中のものを紙袋に入れて私の自宅に届けてくれました。紙袋の中には,靴・ジャンパー・教材の時計(子供用の玩具)・タバコ・ライターなどが入っていましたが,帽子はありませんでした。
甥は,畳んだままの,埃だらけのジャンパーを手に取って,「これは着ていない。この上に吐いていて,そこからこぼれた吐瀉物が車の中にもあった。このジャンパーは助手席との間にあった。」と言いました。私がそのジャンパーを見ると,前ボタンは全部留めてあり,前身ごろに多量の吐瀉物の跡がありました。綺麗に畳まれたままのジャンパーを裏返して開くと,長年座席の下に入れていたことが判るように後身ごろの畳み皺には綿埃がぎっしりとこびり付いていました。靴にも吐瀉物が付いていました。
5 7月25日のこと
- (1)
- その後の25日昼頃,私は,私の妹の車で,妹と二人で,甥(私の亡兄の長男)が斎藤さんに「事故現場だ。」と言われた場所を確認しに行きました。
- (2)
- その後,帰宅し,午後8時30分頃,三菱自販に電話したところ,夏休み中のため連絡がつかずにいた平岩(仮称)さんと電話で話すことができました。平岩さんは,「僕がジープを見ました。」と言うので,私は,「『笹寿司』の女将さんも目撃されていたのですが,どなたも通報してくれず,主人がかわいそうで・・・・・。」となじりにも似た言葉を言ってしまいました。すると平岩さんは,私の言葉に驚き,「エー!警察から何も聞いていないのですか?僕が警察に110番通報しましたよ。するとパトカーが来て,パトカーの警察官が,交差点にいた御主人の車をホンダの前に移動したのですよ。」と言いました。私はびっくりして,「詳しいことを聞きたいので,遅いですが,すぐに伺いますので,待っていて下さいますか?」と尋ねたところ,平岩さんは了解してくれました。
私は,平岩さんの話を聞き,手は震え,背中に冷たいものが走りました。
なんて恐ろしいことを・・・・・。私はその場で直ぐに,保土ヶ谷警察署に電話をして,斎藤さんを呼び出しましたが,電話口に出た男性の警察官が,「斎藤は,今,署にはいません。」と言ったので,私は,「折り返し電話下さい。ジープの件の久保です。」と言ったところ,すぐに斎藤さんから,私の自宅へ電話がかかってきました。私が斎藤さんに,「パトカーが出ていたじゃないですか。よくも,騙したわね。知ってたんでしょ。」と言うと,斎藤さんは,「ウーン。」と言って押し黙ってしまい,何も言えなくなってしまいました。斎藤さんが私たちに,「通報がない。」などと言っていたことは,全て嘘だったのです。
- (3)
- その後,私は,妹の車で,長男と妹の3人で平岩さんに会いに出掛けようとしました。
出掛け際,吉川葬儀社の事務所の灯がまだ点いていたので,平岩さんとの電話で警察に騙されていたことを知った私は,吉川葬儀社に駆け込みました。
「パトカーが出ていたのに,出ていないと警察に騙されていた。心筋梗塞も嘘だと思う。」などと吉川(仮称)さんに言ったところ,吉川さんは,区役所に届けた検案書のコピーを見せてくれました。検案書を初めて見ましたところ,「死因・心筋梗塞,解剖・有」と,驚く記載がありました。目が点になりました。監察医伊藤順通の印がありました。解剖もしていないのに何故この医師はこのような嘘を書くことが出きるのかと,強い衝撃と憤りを感じました。
- (4)
- 夜半過ぎ,平岩さんとの面談を終えて自宅に戻ると,私たちが出掛けた直後から,ひっきりなしに保土ヶ谷警察署から電話が自宅に入っており,留守番をしていた私の長姉らが応対をしていました。長姉によれば,最後の電話は零時にあり,「明日(26日),自宅に事情説明に伺います。」との伝言でした。
保土ヶ谷警察署内が蜂の巣をつついたような状況であることが電話口から感じとられたと応対した長姉は言っていました。
6 7月26日以降のこと
- (1)
- 翌26日午前中,保土ヶ谷警察署の山本副署長,土屋刑事課長の二人が自宅に来て,私,3人の息子,夫の長兄,私の長姉・次姉夫婦,私の三姉・四姉,私の妹,その他親族が応対しました。しかし,何を聞いても間接的な答えなので,私は,「直接本人たちを連れて出直して下さい。」と言って,その旨了解を得たうえで,お引き取り願いました。
その日(26日)の午後3時頃,山本副署長から電話があり,「当人たちは連れていけない。」と言われたので,私が,「話が違うではないですか。」と言ったところ,副署長は,「人払いをしていただけますか。あんなに大勢いたら話せない。奥さんとお兄さんだけにしてもらえますか。」と言うので,了解しました。
そして同日(26日)の夕刻,保土ヶ谷警察署の山本副署長・土屋刑事課長に伴われ,斎藤さんは,青地・村井両警察官とともに自宅に来ました。斎藤さんは私のとなりで背中を丸め,テーブルの下に頭を埋めるほどのうちひしがれた状況で蚊の泣くような声で,二言三言,力なく答えました。
- (2)
- 8月4日,保土ヶ谷警察署から再度ジープを引き上げましたところ,助手席に,探していた夫の帽子が置いてありました。車中のもの全てを甥(私の亡兄の長男)が21日に引き上げたうえで警察にジープを届けた事実を知らぬ保土ヶ谷警察署に,この件を問い合わせたところ,「車の中にありました。」とまた嘘を言いました。
- (3)
- 7月26日以降は,私どもは,斎藤さんには一度も会わせて貰えませんでした。署長にも会わせてくれず,その度ごとに対応する山本副署長に対して,「警察が汚した嘘の検案書は提出できません。警察の方で正しく綺麗な検案書に直して下さい。」などと要求し続けて来ました。
返って来た副署長の言葉は,「伊藤医師には自分からは言えない,久保さんの方から頼んで欲しい。」と困惑の様子で答えるだけでした。私は,「私が頼む必要など無い。不正をした者が正すのが筋です。」と言うと,山本副署長は,「考えさせてください。」と言い,2〜3回同じ問答が続きましたが,「申し訳ないが,どうしても伊藤医師には言えない。」と言い残し,山本副署長は転勤になりました。
その後,この件は和田警務課長に引き継がれたため,私は警務課長に「署長と斎藤さんに会わせて下さい。嘘で汚れた書類を綺麗にして下さい。」などと引き続き要求をして来ました。その後,10月8日,和田警務課長から電話があり,「斎藤に会わせることは出来ないが,署長が会う。」との連絡が入り,同日,伊藤署長に会いました。このときは親族の他に司法書士の寺田氏(仮称)を伴いました。
この間の保土ヶ谷警察署幹部との一連の折衝については,記録が残っております。追って詳細に陳述いたします。
- 7 終わりに
- 以上,本件事件直後の出来事について,斎藤さんに関連する事項を中心に真実を記しました。
この間の一連の事実全てに,斎藤さんは関与しております。私は,斎藤さんには,ぜひ私の陳述書を読んでいただきたいと思います。そして本年9月20日の尋問の際には,警察組織の不始末を隠蔽するのではなく,真実を述べて欲しいと切に願っております。今からでも決して遅くはありません。斎藤さんの人間としての良心を,私は信じています。
以 上
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