甲47号証・原告久保佐紀子陳述書(2)

原告による陳述書。
陳述書は2回横浜地裁に提出された。これはその第2回。(第1回ぶんは、ここをクリック→陳述書第1回

筆・HP管理人
※以下の文章は陳述書を自動読み取りソフトで読み取り、原文と照らし合わせて必要な修正を加えたものです。


平成16年11月5日
横浜地方裁判所第9民事部 御 中

陳  述  書(2)

原 告 本 人 久保佐紀子

私は,先に陳述書(1)を提出していますが,それを補足するとともに,同陳述書に記さなかったことを,以下,陳述します。

第1 私たち家族の経歴など

1
私と久保幹郎は,昭和48年に結婚し,3人の子をもうけました。私ども夫婦は,幼稚園生・小学生向けの月刊教育雑誌の特約代理店を20年来営んでおり,南区・保土ヶ谷区の全域と隣接する神奈川区の一部とをエリアとして担当していました。雑誌を読者のお宅まで届けて下さるコンパニオンの方々への指導と配本が主な仕事であり,倉庫が戸塚区川上町にありました。
 また夫は,幼少より煎茶道・華道の宗家を継承する立場であり,昭和58年6月に四世家元が死去し,五世を継承しました。
 私ども夫婦は,楽しく充実した日々を過ごしておりました。

2
夫は健康そのものであり,病気ひとつしたことはありません。夫は,結婚以来,健康保険証を使用したことは一度もなく,体の不調を訴えたこともありません。自宅にある血圧計で計っても,夫の血圧はごく正常でした。

3
夫は,話好きで,のんびり屋で,家庭的な人でした。食事はほとんど自宅で取り,月1〜2回開かれる会社の会議の後の懇親会の時以外は,外で酒を飲むことはありませんでした。夕食の時にビール1本を長時間かけて飲むというタイプであり,いわゆる酒飲みではありません。
 (なお,先の法廷において,ジープを移動した際に,酒のような臭いがしたと村井・青地両警察官が述べていましたが,夫が酒を飲んでいたということはあり得ません。なぜならば,夫は決して飲酒運転はしませんし,倉庫には水道も敷設されておらず冷蔵庫もなく酒を飲むような場所ではないからです。また夫は,一人でチョット飲みをする人でもありませんし,夫は当時,小銭入れしか持っていませんでした。夕食を家で取ると言って夫は出かけたのですから,外で酒を飲んだとは考えられません。酒のような臭いがしたというのが仮に真実であるとしたら,吐瀉物の臭いのせいだと思います。)。
第2 事件後の経緯
1
平成9年7月18日
 同日午後6時頃,当時交通事故で入院していた次男の見舞いから帰った私と入れ替えに,夫は入庫予定の書籍があったため,ジープに乗って一人で自宅を出ました。翌19日は東京の自民党本部内の会議場で煎茶道連盟の研修会が予定されており,その後,夫と私は,私が運転する自家用車で20日に山梨で開かれる甥の妻の一周忌法要に参列する予定でした。
 私と三男は,自宅を出る夫を見送りましたが,この時の夫の服装は,野球帽をかぶり,グレーの半袖Tシャツに同色のズボンで,いつも仕事で使っているバックの中から免許証だけを持ち出して,「ご飯はちょっと遅くなるな。」と言って出かけました。
 18日深夜(正確には,日付が変わった翌19日午前0時頃),私は,同日午後1時からの研修会のことを夫が忘れているのではないかと思い,倉庫には電話が敷かれていなかったため,自家用車で夫を迎えに行こうと思いました。しかし,駐車場を覗くと長男が自家用車に乗って出掛けたため,私は長男宛に,「すぐ帰れ。」とポケベルを入れました。長男は近所の友だちの所にいたため,すぐに帰ってきましたが,「父さんは忘れる人ではないから,迎えに行っても入れ違いになるといけないからやめたら。」と長男に言われ,そのまま家で長男の食事に付き合った後,私は長男・三男とともに同日午前3時頃,床に着きました。

2
平成9年7月19日
(1)
陳述書(1)に記しましたが,同日午後3時頃,芝山酒店(仮称)の奥さんが自宅に来て,夫が事故に遭ったことを知らされました。長男は同日午前11時頃,遊びに出掛けたため,芝山酒店の奥さんが来た時は,当時受験生の三男と二人で自宅にいました。夫は髪の毛が薄いのを気にしていたため,私は夫の頭に巻くタオルを持って,急いで三男とタクシーで保土ヶ谷警察署に駆け着けました。
 その後の経緯は,陳述書(1)に記載したとおりですが,私と三男が保土ヶ谷警察署に着いた午後4時前から,同署を出て自宅に向かった午後6時30分過ぎまでの間,斎藤清被告(以下,「斎藤さん」と言います。)が私と三男から離れたことはなく,夫の遺体と対面した時も,私の調書を作成している時も,また私どもが同署を出た時も,いつも斎藤さんが私どもの目の前にいました。これは間違いありません。そして,斎藤さんの私どもに接する態度がとても優しかったのが記憶に残っています。
(2)
私と三男が,葬儀社の車で自宅に戻ったのは,19日の午後7時前で間違いありません。
 その時には,既に事故の知らせを聞いて,長男や親族10人ほどが自宅に集まっていました。その後の経緯は陳述書(1)に記したとおりです。夫の遺体が自宅前に着いたのは午後8時20分過ぎ,吉川葬儀社(仮称)でのお棺の移し替えを終えて自宅内に運びこまれたのは午後9時過ぎで間違いありません。この事実は,その場にいた親族らが皆確認しています。なお,夫の遺体が戻って来た時に,私は,吉川葬儀社の社員に6000円を支払い,被告伊藤順通(以下,「伊藤医師」と言います。)作成の領収書を受け取りました。また,私は,この目は,伊藤医師が発行した死体検案書【甲8−3】は目にしていません。死体検案書は,死亡届に必要な書類であり,遺体とともに遺族に手渡されるものと聞きましたが,死体検案書と一体の文書である死亡届は夫の長兄が書き込んだもので,また泉区役所への死亡届の提出は吉川葬儀社がして下さったと後に聞きました。)

3
平成9年7月20日
 20日午前2時か午前3時頃,自宅に駆けつけた親族がそれぞれ引き上げた後,ようやく夫と二人きりになれたので,お棺の蓋を開けて夫と無言の会話を交わしたことについては,陳述書(1)に記したとおりです。
 私は,白色の死装束の胸元を開き,ハンドルで打ったのであろうと思いながら夫の胸を撫で回しました。夫の左乳首には長い毛が1本生えており,夫は日頃,この毛のことを「元気印」と言って家で話題にしておりましたが,遺体に「元気印」の長い毛が1本あったのを私は確認しています。夫の鼻柱と上顎の打ちみの形跡は,保土ヶ谷警察署の霊安室で見た時よりも濃く見え,目だちました。死因は心筋梗塞と斎藤さんに確認をしましたので,余程怖い思いをしただろうと思い,私は警察署から持ち帰ったビニール袋を開けて見ました。中に入っていたTシャツは前面中央から切られていて,ズボンには鼻血のような血痕が付着していました。トランクスも入っていましたが,失禁の跡はありませんでした。
 袋の中はこの3点だけで夫が毎日かぶっていたメッシュの野球帽がありませんでしたが,車の中で亡くなっていたと斎藤さんから聞いていましたので,当然,ジープの中に落ちているものと思いました。

4
平成9年7月21日
 この日,ジープを保土ヶ谷警察署から引き上げ終わった甥から電話があり,「今,ジープを引き上げて来たが,タイヤの様子が変だし,フロントガラスに蜘味の巣状のひび割れがあって外にバリが出ている。運転席と助手席の間には吐瀉物があるから,頭をぶつけて吐いているよ。事故現場が見つからないというのも変だ。斎藤さんに言って事故を調べ直して貰った方がいいと思う。ダッシュボードの中に,車検証と自動車保険の証書もあった。交通事故に遭ったことは確かだから,任意保険にも届けるように。」などと言われたため,私は直ぐに保土ヶ谷警察署に電話を入れて,「事故を徹底的に調べ直して欲しい。」と述べた事実につきましては,陳述書(1)に記したとおりです。
 その時の斎藤さんは,なぜかしばらく無言で,言葉に詰まった感じで,「それならば,ジープをもう一度警察に戻すように。」と指示されたのが,はっきり記憶に残っています。  

5
平成9年7月22日
 陳述書(1)に記したとおり,一時退院していた次男が,この日の夜,友だちが運転する車で,事故現場を探しに出掛けました。「事故現場がない。」という斎藤さんの説明には,親族の誰もが変だと感じていました。
 当時は,私と三男しかジープを見ていませんでしたが,父親の性格を良く知っている次男は,「お父さんは,心筋梗塞ならば必ずブレーキを踏んで止るよ。そこが事故現場だから,その現場を探しに行くよ。」と言って出かけました。
 そして,しばらくして次男は,「ますます変だよ。お父さん,パンクしたまま笹寿司のところまで運転して来て止まっている。」などと叫びながら帰って来ました。笹寿司の女将さんによれば,暖簾をしまうために外に出た時,パンクの音をさせてジープが走って来て,店の前の停止線で止まったので,パンクを直しに降りて来ると思って暫く見ていたが,なかなか降りて来ないので気になったが,ジープなので怖い人でも乗っていたら嫌だと思い,遅いのでそのまま店の中に入ってしまったとのこと。私どもは,「誰かが,ジープをホンダクリオの前まで動かしている。誰だろう?」と不思議に思いました。斎藤さんからは,「パトカーの通報は一件もなかった。」と言われており,それを信じていた私は,「警察ならば,直ぐに,誰がジープを動かしたかを調べてくれるはず。斎藤さんも『調べ直す。』と言っていたから大丈夫。明日,お父さんは,通夜で家から出て行ってしまうから,静かに送り出してあげよう。」と述べ,息子たちも同意しました。また,この目,三菱自販の販売課長が次男に名刺を出して,「私の部下がよく見て知っている。後日,電話を寄こすように。」と述べたことは,陳述書(1)に記したとおりです。

6
平成9年7月24日
 葬儀の日の夜,ジープを保土ヶ谷警察署に同日戻した甥が,自宅に靴・ジャンパー・教材の時計・タバコ・ライターを届けてくれました。甥は,「ジープの中を一所懸命に捜したが,帽子はなかった。ジャンパーは着ていない。このうえに吐瀉物があった。」などと言いました。きれい好きで凡帳面な夫らしく,吐瀉時に無意識に座鹿の下からジャンパーを引き出し,その上に吐いたのだと私は恩いました。このジャンパーは、はるか昔に私が買った品で,小さくて着られないので,ポロ布用に座席の下に畳んだ状腰で入れていたものでした。いつも帽子を手放さない夫の帽子がなぜジープ内にないのか,私は帽子の行方が一番気掛りでした。なお,この目,斎藤さんは甥を「事故現場」に案内したそうですが,夫が右折車線上の車の中で倒れていたことも,パトカーが出動してジープを移動したことも,全て隠していたそうです。

7
平成9年7月25日
陳述書(1)に記しましたとおり,私は,午後8時半頃,三菱自販の平岩(仮称)さんに電話を入れました。この時,真実はパトカーが出動していたことを初めて知らされました。自宅にはまだ親戚たちがおり,驚きのあまり,自宅の中は蜂の巣をつついたような騒ぎになりました。
 私は,すぐに保土ヶ谷警察署に電話をかけ,折り返し電話を掛けて来た斎藤さんに,「パトカーが出ていたじゃないですか。よくも騙したわね。」などと言うと,斎藤さんは黙り込んでしまいました。
 すぐに,私は吉川葬儀社に行き,吉川葬儀社が保管していた死亡届・死体検案書のコピーを見せてもらいました。私は,その時初めてこの書類を見たのですが,解剖有りに丸印がつけてあり,驚きました。「何これ!何があったの?」と目が点になりました。
 私は,午後9時頃,直接平岩さんと会って話を聞きました。平岩さんは,
 「私は,何時も仕事で使っている警察の電話番号に通報して,パトカーの到着を待っていました。自分の同僚も,ジープの横に停車した時,ジープの運転手が運転席で倒れていたので,降車してジープの中を見て,その後,信号が変わったので,走行中に車の中から警察に通報したと言っています。どちらの通報でパトカーが出動したのか分からないが,確実に二度の通報が警察に入っているはずです。その後,パトカー1台とバイクの巡査が到着したが,バイクの巡査は直ぐに帰り,パトカーの警察官たちがジープをホンダクリオ前に移動して,何かしている様子だったので,適切な処置をしてくれると思い,私は安心して帰りました。しかし,翌朝出勤したらホンダクリオの前で警察官がジープを調べていたので,私は近づいて,『このジープは夜中に自分が通報したジープだが,何故ここにあるの?』と聞いたのです。」
などと話して下さいました。
 平岩さんは,
「右折車線上の停止線から2台目辺りに,ジープがハザードランプを点灯して止まっていたので,大きなトラックにでも追突して,トラックは気がつかずに行ってしまったのかと思い,警察に通報してパトカーが来るまで待っていたのに,亡くなったと聞いて驚きました。私が,警察でなく救急車を呼んでいればと思うと悔やまれます。」
とも言いました。私はこの言葉を聞き,「優しい人だな。」と思い,救われた気持ちを抱きました。
 夜中,自宅に帰ったところ,保土ヶ谷警察署からひっきりなしに自宅に電話が入っていたことは,陳述書(1)に記したとおりです。

8
平成9年7月26日
この日の午前中,保土ヶ谷警察署の山本副署長と土屋刑事課長が私どもの自宅を訪ねてきました。
 私は,事前に,姉が名前をたまたま知っていた弁護士の電話番号を調べて電話を入れ,疑問点を尋ねました。私は,「司法解剖は,必ず胸も頭も開きますよね?夫の体は解剖されていなかったが,検案書では解剖したことになっている。このようなことがあり得るのですか?今日の午前10時に自宅に警察が来るので立ち会っていただけませんか?」とその弁護士にお願いしましたところ,「胸も頭も当然開くが,素人がそんなことに口出すな。『解剖あり』との記載が書き間違いだったと医者に言われたらそれまでだろう。弁護士はそういうところには立ち会わない。」などと冷たく言われました。よく考えて見ますと,その弁護士が言うとおり,「書き間違い」で逃げられることはあり得ることだと思い,親戚と相談した結果,夫の遺体には頭にも体にも解剖跡はなかったことはこちらから言わないこととし,まず警察に対し解剖したのかしなかったのかをはっきり確認する場にしようと話し合い,証拠とするために録音テープ(後に横浜地方検察庁に提出済み。)に取ることにしました。
 午前10時頃,山本副署長と土屋刑事課長が自宅に来ました。私が尋ねたところ,二人とも,「解剖はしました。間違いなく,胸も頭も開きました。」と答えました。これに対し,私が,「頭はどのように開いたのですか?」と質問をしたところ,土屋刑事課長は,自分の両手の人指し指で自分の額から後頭部の方に向け水平に半円を描き,「このように開きました。」と述べた後,蓋を開けるように頭頂部の骨を取り外す格好をして見せました。私ども親族は,皆それぞれあえて表情を変えず,警察の嘘の説明を聞いていました。それ以外のことについては,何を聞いても間接的な返答なので,私どもは,直接携わった警察官たちを伴って出直すよう要請しました。
 その日の午後3時頃,山本副署長から自宅へ電話があり,「当人たちは連れていけない。」と言ったので,私が,「話が違うじゃないですか。」と反論しましたところ,午後5時頃,3名の警察官を伴い,山本副署長と土屋刑事課長が再度,自宅を訪ねて来ました。この時のやり取りも録音テープ(後に横浜地方検察庁に提出済み。)に取りました。私のとなりに座った斎藤さんは,見るも哀れな姿でうなだれていて,顔を上げることはなく,発言することもほとんどありませんでした。
 私は,「主人の車を運転して移動した時に,前輪がパンクしていてハンドル操作が限界のことは分かったはず。サイドミラーが破損し,フロントガラスは蜘妹の巣状にひび割れ,主人は運転席で倒れていた。この状態で事故と思わなかったのですか?なぜ病院に連れて行かなかったのですか?目の前が市民病院じゃないですか!」と尋ねたところ,村井警察官は,「酔っ払いと思った。」と小さな声で言いました。私が,「酔っ払いと思ったのなら,必ず警察署に連行するはずでしょう!」と尋ねたところ,山本副署長が慌てた様子で口をはさみ,「飲んで運転中でないと連行はできないのです。」と答えました。私が,「主人は,家で毎晩,晩酌にビール500mlを2時間かけて,話をしながらチビチビ飲むのが好きな人です。短時間で飲むのならば飲まない方がいいと言い,外で一人では飲まない人です。酔っ払った姿は見たことがなく,外で飲むのは月1回の会議の後くらいで,しかも帰りに仲間と飲む時は必ず私に断っていきます。絶対に飲んではいません。」と説明すると,山本副署長は,「そうだと思います。アルコールを飲んでいなかったことは確認されています。お酒は飲んでいなかったと思います。」と答えました。
 また,私が,「なぜ家に連絡しなかったのか?」と尋ねたところ,村井警察官は,「免許証がなかったから,分からなかった。」と答えました。夫は免許証を携帯しており,しかも私はそれを19日に斎藤さんから返してもらっているので,更にはジープのダッシュボードには車検証と自動車保険の証書が入っていましたので,この返答には本当に驚き呆れ果てました。私も憤慨し,「あなたは馬鹿か?今時の幼稚園生でも,もっとましな事を言う。免許証が無かったら,車のナンバーから直ぐ割り出せることは知っているでしょう!署に連行したので,家に連絡する必要がなかったから電話しなかったのでしょう!」などと言うと,村井警察官は,「いえ,判断力はあります。上司の指示を仰ぎました。」と山本副署長の方をチラチラ見ながら涙目で答えました。
 また私は,斎藤さんに,「本当に解剖したのですか?」と尋ねたところ,斎藤さんは,「頭は解剖しませんでした。」と,先程の土屋刑事課長の発言とは異なる返答をしました。

9
平成9年7月27日
 私は,ホンダクリオに立ち寄り,藤原店長(仮称)に会いました。藤原店長は,
 「朝8時半ごろジープに気付きましたが,運転席に人は見えませんでした。午前11時頃,営業の邪魔なので,ジープの中をよく見たら,人が倒れていました。体は,全身,座席の下にありました。急いで救急車を呼びました。」などと話して下さいました。
 その足で私は,午後5時頃,片倉消防署を訪ね,担当者であった佐藤さんとお会いすることができました。佐藤さんは,書類を見ながら答えて下さいました。
 「救急車の要請を受けて出動し,心肺停止の状態で市民病院に搬送した。搬送時,ジープ車内を隈なく探したが,免許証が見つからなかったため,身元不明体として搬送した。市民病院に搬送した後の帰路,ホンダクリオ前で警察官がジープを調べていたので私は立ち寄り,身元が判明したかを確認したが,警察官に『分からない。』と言われた。」などと説明され,私は夫が身元不明体の状態で横浜市民病院に搬送されたことを,この時,初めて知り驚きました。  

10
平成9年7月28日
私は,横浜市民病院に電話をしました。担当した小島医師(仮称)は忌引き休暇のため不在で,変わって石井事務長が「カルテを見ながらご説明します。」と言って,以下のとおり,答えて下さいました。
  19日11時15分 救急車到着
        11時22分 小島医師が死斑確認し,死亡確認書作成。身元不明のため,保土ヶ谷署員が死体検視に来院。
        13時40分 遺体と死亡確認書を警察に渡す。遺体,市民病院を出発。

11
平成9年8月4日
夫の葬儀の目に保土ヶ谷警察署に再度届けていたジープを,自宅まで引き上げました。ジープは,事故後初めて,自宅に戻って来ました。私と三男以外の親族は,事故車をこの日,初めて見ました。ジープの助手席に,あれだけ必死に探していた夫の帽子がのせてありました。警察は,私が夫の帽子にこだわっていたことは知る由もなく,気にもとめずにジープに入れてきました。
  夕方,保土ヶ谷警察署の斎藤さん宛てに電話しましたが,斎藤さんは電話口には出ませんでした。私は,「帽子はどこにあったのですか?」と替わって電話に出た山本副署長に尋ねました。すると副署長は,「車内の後部にあった。」と嘘を言いました。甥が,ジープ内を限なく探して帽子がないことを確認し,車内にある物全てを持ち帰ったうえで,7月24日,ジープだけを保土ヶ谷警察署に戻したのですから,副署長のこの説明は確実に嘘です。

12
平成9年8月7日
私は,夫の兄とともに,横浜市民病院を訪ね,小島医師に会いました。小島医師は,先に事務長から伺った説明を再びした後,「血液を採取しました。死体からの血液採取は難しいのですが,良く採取したとスタッフを誉めました。検査後の残りの血液は,僅かでしたが警察に渡しました。」などと説明して下さいました。また,「カリウムの数値は通常4〜5で,7になると死亡するが,その数値が9でした。」とも説明されました。すぐ近くに大きな病院があるのですから,青地・村井両警察官が夫をこの病院に搬送さえしてくれていれば助かったのにと,本当に悔んでも悔やみ切れませんでした。

13
平成9年8月8日
前日(7日)午後8時30分頃,私は保土ヶ谷警察署に電話をして,斎藤さんと連絡を取りたい旨伝えたのですが,この日(8日)になって,山本副署長から電話があり,「斎藤に会わせることはできません。」と言われました。私が,「斎藤さんがだめならば,署長と話をしたい。」と述べたところ,「考えます。」との返事で一旦電話は切れましたが,その後,「署長は会えない。」と断りの電話が副署長から入りました。  

14
平成9年8月11日
午後4時頃,私は署長に会うため,次男とともに保土ヶ谷警察署に出向きました。山本副署長が応対しましたが,署長との面会も,斎藤さんとの面会も,拒否されました。

15
平成9年8月15日
その後も何回連絡しても,保土ヶ谷警察署は斎藤さんを電話口に出してくれませんでした。この日,代わりに山本副署長が電話口に出たので,「免許証はどこにあったのですか?」と尋ねましたところ,副署長は,「上着のポケットの中にあった。」と答えました。
 「あれはポロ布として座席の下に入れてあったもので,小さくて着ることはできません。そこに免許証があるわけがありません。」と私が言ったところ,副署長は,「そのように報告を受けています。」ととぼけていました。

16
平成9年9月4日
保土ヶ谷警察署の一連の対応に納得が行かず,私は県警の監察官室に電話をしました。  

17
平成9年9月5日
山本副署長から自宅に電話があり,「監察官室から連絡があった。」などと言われました。
 私が,「7月18日の夜,斎藤さんは当直でしたよね?」と尋ねたところ,副署長は,「そうですよ,当直でしたよ。」と答えました。私が,「あなたは,7月26日に自宅に説明に来た時は,斎藤さんは19日の朝8時30分からの勤務であると言っていましたよ。」と言うと,副署長は,「そうですか?そんなこと,言いましたか?斎藤は当直で18日の夜からいましたよ。」ととぼけていました。  

18
平成9年9月8日
私は,保土ヶ谷警察署に出かけ,山本副署長に対し,「解剖しないで,このような虚偽文書を作成されては,どこにも提出できない。学生保険にも生命保険にも,死体検案書を提出できずに困り果てている。正しい文書に訂正して下さい。事故証明も出して下さい。」などと求めました。

19
平成9年9月10日
山本副署長から電話があり,「事故証明は来週出ます。検案書の件は,もう少し考えさせて下さい。」との返事がありました。

20
平成9年9月11日
山本副署長から電話が入りました。副署長から,「どうしても,警察からは『正しい書類にして欲しい。』と伊藤先生に言えない。正しく直すと罪になるんだよ。久保さんの方から,伊藤先生に頼んでくれないかな。」などと懇願されました。私は,腹が立ち,「何で私が頼む必要があるのですか。筋が違うでしょう。自分たちで汚した書類は,自分たちで綺麗にして下さい。」と伝えると,副署長は,「もう少し時間を下さい。」と言って電話を切りました。  

21
平成9年9月17日
私が保土ヶ谷警察署に電話を入れたところ,山本副署長は転勤しており,和田警務課長が担当になりました。私は「逃げたな!」と思いました。

22
平成9年10月4日
和田警務課長から電話があり,「事故証明が出ます。署長が会います。」との連絡でした。

23
平成9年10月8日
私は,長男・次男と寺田氏(仮称、司法書士)を伴い,保土ヶ谷警察署を訪ね,伊藤署長に会いました。新副署長も同席しましたが,初対面にもかかわらず,伊藤署長の態度の悪さには驚きました。伊藤署長は,開口一番,「死んでしまったものは,しょうがねえじゃねえか。」とパイプ椅子の背もたれに腕をかけ,行儀悪く伸ばした足を組み,言い放ちました。
 「それでも署長か!」と私が怒鳴ったら,署長は慌てて居ずまいを正しました。
 伊藤署長は,交通事故を認め,「事故証明書は出します。よく相談してあるから,伊藤先生の件は,直接先生に聞いて下さい。」などと言い,その場で和田警務課長に伊藤医師に電話するよう命じ,その後,「17日に伊藤先生のところに行くように。」と告げられました。

24
平成9年10月16日
私は,「明日,何時に行ったらいいですか?」と伊藤医院に電話をしました。電話口に出た女性から,「午前中に来て,患者さんと一緒に順番を待つように。」と指示されました。私は,ゆっくり話をしたかったので,「患者さんのいない時間にして下さい。」とお願いしましたが,「先生は,東京の大学病院に行っているので,横浜には金曜日の午前中だけしかいないので無理です。」との返答でした。

25
平成9年10月17日
私は,長男・次男・私の妹・寺田司法書士とともに,言われたとおり,午前11時頃,伊藤医院を訪ねて待合室で待ちました。伊藤医院の前には遺体を乗せた葬儀社の車が3〜4台,順番待ちで並んでいました。遺体が10分から15分の間隔で入れ代わっているのに,伊藤医師は診察室で患者を診察しており,待合室には患者たちが診察の順番待ちをしているのを目の当たりにし,驚きました。
 午前11時20分頃,赤ら顔の伊藤医師が出て来て,診察室で会いました。伊藤医師と会ったのは,この時が初めてでした。
その時のやり取りの概要は,次のとおりです。
 私 「夫の遺体は何時に来たんですか?」
 伊藤「8時半頃だろう。」
 私 「じゃ,何時までかかったのですか?」
 伊藤「10時半頃だろう。」
 私 「大勢の方を診ていらっしゃるのに,よく時間が分かりますね。書類を見て答えて下さい。」
 伊藤「それもそうだな。」
そう言って,伊藤医師は,ドアを開けて,すぐに戻って来ました。
 伊藤「今,見てきた。やっぱりそうだよ。8時半から10時半だ。」
 私 「先生,それはあり得ないです。夫はその時間,自宅に戻っています。夫の体は解剖されてはいなかった。ここに来る時間もないはずです。先生は夫の体さえ見ていないのではないですか?」
 伊藤「俺は解剖した。頭も体も解剖した。」
 私 「ならば証拠の写真と書類をここに出してください。」
 伊藤「そんなものあるか。そんなものは警察に見せて貰え。俺は何も知らない。俺も警察の被害者だ。俺ぽっかりいじめるな。そんなことは警察に言え。」
 伊藤医師はこう言って,助けを求めるようにわめき散らしていました。
 私は,「これで監察医といえるのか。こんな人に監察医の資格はない。」と怒りを我慢できず,部屋を出ました。「こんなの医者じゃない。」と体の大きい次男が伊藤医師に掴みかかろうとしたところ,同席していた寺田氏が制止してくれました。
 その後,家に着くとどっと疲れが出て,誰も動く気力をなくしていました。

26
平成9年10月18日
寺田氏から私の自宅に電話が入りました。寺田氏は,「昨夜,伊藤医師から電話がありました。『あなた(=寺田氏のこと)にだけ,もう一度来週の金曜日に会いたい。』と連絡がありましたが,どうしますか?『その時に息子たちの詫び状を持って来い。』とも言っています。どうしますか?」との知らせが入りました。
 私は,「私もついて行きます。」と答えました。

27
平成9年10月24日
伊藤医師は寺田氏だけと言っていましたが,私も寺田氏に同行して,伊藤医院を訪ねました。
 診察室から出て来た伊藤医師との立ち話でしたが,私は,「息子たちの態度は当たり前です。非があれば詫びますが,詫びる必要はないと思っています。」と伝えると,伊藤医師は,何を勘違いしたのか,「分かればいい。俺も中央大学の教授だ。俺と喧嘩してどうする。俺に逆らって得した者は誰もいない。悪いようにはしないから,もう一度診断書を請求してくれ。」と私の目を見ずに言いました。ほんの2〜3分のことでした。

28
平成9年11月4日
私は,10月24日に伊藤医師に言われたとおり,29日に死体検案書を再度申請しました。
 すると,この日(11月4日)寺田氏から電話があり,「伊藤医師が,『申請書だけでなく,事故証明書も送ってくれないと書けない。』と言っている。そんな馬鹿げたこともないが,どうしますか?」との連絡でした。私は,なぜ必要なのか分かりませんでしたが,「取りあえず,出します。」と答えました。

29
平成9年11月6日
この当時,私は既に,警察と伊藤医師とを告訴する気持ちをもっておりました。伊藤医師が夫を解剖していないことは私も三人の息子も自分の目で確認しており,絶対に間違いのないことです。それにもかかわらず「解剖をした。」と嘘を平然と述べる伊藤医師を私は絶対に許すことはできませんでした。私は,死体検案書を再度申請した際,伊藤医師が「事故死」と書き改めて来ても,伊藤医師を告発する気持ちでいました。しかし,「俺も警察の被害者だ。」という伊藤医師の言葉には真実味があり,伊藤医師は事故のことは何も知らなかった様子だったので,私は事故証明書と一緒に,ジープの写真と手紙を伊藤医師に送りました。
 この伊藤医師宛ての手紙は,私は大きな意味を込めて書いたものです。私は,夫の事件は警察と監察医との共同の犯罪であると確信していましたが,伊藤医師が「俺も警察の被害者だ!」と叫んだ言葉はずっと私の頭にこびりついていました。いかに悪徳な監察医でも,自ら積極的に司法解剖を汚すだろうか?事件の首謀者は誰かという最大の疑問を確かめる方法は何かと考えた時,警察が斎藤さんとの面会を許さぬ以上,真相を伊藤医師から探ることしかないと私は思い,あえて伊藤医師の責任を追及するのではなく,事故の保険金がおりることを願う手紙とも受け取れるタッチの柔らかな文書にして,伊藤医師に差し出したのです。  

30
平成9年12月2日
交通事故の鑑定で著名な駒沢幹也氏に依頼し,自宅にてジープを鑑定して頂きました。
 駒沢氏は,丁寧にジープを見て,「右側を電柱に衝突させた時にフロントガラスに頭をぶつけた。その時の衝撃でクモの巣状のヒビ割れが出来た。頭に相当強い衝撃があったはずだ。内臓をハンドルにぶつけ,内臓破裂したのかも知れない。無意識状態で走行中,左側前輪がバース上したのだろう。ジープ左側の傷跡は,意識もうろう状態で走っていた時のキズと思われる。すぐに医者に行っていれば,これ位ならば,助かったはずだ。タイヤの切れ端も警察が切ったものだ。右側のサイドミラーも警察が外している。」などと説明を受けました。

31
平成9年12月19日
私は,長男とともに保土ヶ谷警察署を訪ね,和田警務課長に会いました。そして,
@
不祥事を起こした村井・青地・斎藤氏の処分
A
解剖に関する伊藤医師の報告書の提出
B
夫の遺骨の前での関係者の謝罪
を求めました。

32
平成10年1月14日
和田警務課長から私宛てに電話がありました。和田課長は,「伊藤先生が,頭は解剖しなかったことは認めた。伊藤医師が,『車の保険屋さんに自分(=伊藤医師)のところへ来て欲しい。』と言っている。後は久保さんの腕次第ですね。」と言いました。
 私は,その言葉を聞き,「それが警察官の言う言葉ですか?」と述べたところ,和田課長は,「伊藤先生の伝言ですので。」などと弁解をしていました。
 私は,その和田課長の言葉を聞き,ジープの任意保険である全労済の担当者田尾氏(仮称)に電話をし,その旨を伝えました。

33
平成10年2月3日
タイヤの切れ端と破損ミラーを,和田警務課長から返して貰いました。

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平成10年9月23日
私は,横浜地方検察庁に斎藤さん,伊藤医師,青地・村井両警察官を刑事告訴しました。当時は,弁護士が就いておらず,私名義での告訴でした。私は,検察庁に正義が存在することを信じて告訴をしたのです。  

35
平成11年1月20日
当時,全国交通事故遺族の会の顧問を務めていた大野弁護士と面会し,大野弁護士は事件を引受けて下さいました。

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平成11年4月7日
私は,大野弁護士・長男・島田孝夫氏(仮称、全国交通事故遺族の会の相談役)とともに横浜地方検察庁に行き,担当の土持検事と会いました。
 大野弁護士が,「伊藤医師は解剖されていなかったようですね?。」とぽつりと聞くと,土持検事は,「その様ですね。」と答えました。その直後の『しまった!』という顔が印象的でしたが,検事は慌ててすぐに「着任したばかりで,まだ良く目を通しておりませんので・・・・・。」などと弁解をしていました。つい出てしまった本音を土持検事は隠し切れなかったのです。この日のやり取りは,非常に印象的でした。

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平成11年8月30日
横浜地方検察庁から呼び出しがあり,私は大野弁護士とともに土持検事に会いに行きました。
 土持検事は,開口一番,「前に『解剖していないようですね?』と聞かれた時に,『その様ですね。』と私が答えたのは,資料を見ていなかったもんですから・・・・・。」と言い訳をしました。その後,土持検事は,「写真はあるが見せられない。私個人の意見としては,亡くなったのは事故のせいだと考えています。保険金は出るはずです。保険が出た場合は,告訴を取り下げるつもりはありますか?」と聞かれました。私が、「本質が違います。事故の保険金が欲しいためにやっているのではありません。取り下げるつもりはありません。」と返答すると,土持検事は困った様子でした。続けて土持検事は,「国家賠償はしますか?」と尋ねたので,私はそのようなことは当時考えていませんでしたので,「考えておりません。」と即答したところ,検事はほっとした顔をしていました。
 面談後,私は大野弁護士に,「検事は最後に何であんなに嬉しそうな顔をしたんですか?」と尋ねたところ,大野弁護士は,「密室での捜査と違い,民事裁判になれば,裁判所で事実が明らかになる。検察としても,かばい切れない。それがイヤなのでしょう。」と答えました。私はその時,民事訴訟という手段があることを知り,裁判をやろうかと思いました。   

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平成11年9月11日
当時,次々と出ていた神奈川県警不祥事の一貫として,夫の事件が初めて新聞記事となりました。『毎日新聞』が報道すると,マスコミ各社が神奈川県警監察官室に間い合わせをし,不祥事を隠しきれなくなった県警はマスコミ用に発表をしました。この日を境に新聞各社,テレビ各局の取材が殺到し,社会的にも高い関心を持たれるようになりました。

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平成11年9月23日
大野弁護士と共に,吉川葬儀社の吉川社長(仮称)にお会いしました。警察とかかわりのある仕事であるだけに,証言をすることは不利益であろうに,話をして下さる正義感のある社長に感銘しました。
 後日,吉川葬儀社の事務員から,「従業員全員で,会社の仕事に差し支えるから証言はやめて欲しいと社長にお願いしたが,社長は『本当の事を話すのがなぜ悪い。』と言って聞き入れてくれなかった。」と聞かされました。

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平成12年1月7日
私は,調書作成のために横浜地方検察庁に呼ばれました。土持検事から,「ご主人,心臓悪かったのですね?」と聞かれ驚きました。私は,「悪くないです。」と答えると,土持検事は,「警察の調書には悪かったと書いてある。」と告げました。
 土持検事には,免許証と帽子がなぜ,どのような経緯で警察から出て来たのか,なぜ免許証がジャンパーのポケットにあったと警察は嘘をついたのか,なぜ身元不明のまま夫は病院に搬送されたのか,なぜ行われてもいない司法解剖の書類を必要としたのかなどの疑問点を指摘し,DNA検査も含めて,真実を明らかにして欲しいとお願いしました。

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平成12年2月7日
横浜地方検察庁に呼ばれ,私は,大野弁護士とともに土持検事に会いました。
 土持検事は,「2人の警察官が取った措置は誰が見ても適切な処置ではなかった。しかし,故意にした訳ではない。」,「伊藤先生が解剖したことについては,複数の警察官が証言している。」などと述べ,不起訴にしたい旨を述べましたが,私は納得できない旨を述べて,検察庁を後にしました。

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平成12年2月8日
不起訴処分にしたい旨の意向を伝えられた翌日のことです。午後3時頃,大野弁護士から電話があり,「昨日,地検から帰ったら,伊藤医師から電話がありました。伊藤医師は,『久保さんが来た時には,久保さんも興奮していたので冷静に話が出来なかった。静かに話しあう機会が欲しい。』と言っていました。私の方から伊藤医師に,『お会いしましょうか?』と聞いたら,伊藤医師は,『今は自宅に帰れる状態ではないのですぐには無理だが,会える状態になったら連絡をする。』と言っていました。伊藤医師は,マスコミが殺到しているので,ホテル住まいをしているそうです。」などと連絡を頂きました(その後,この裁判が始まる前,大野弁護士は,JR品川駅前のパシフィックホテルで伊藤医師と一対一で会いました。その時,伊藤医師は大野弁護士に対し,「解剖をしたかしなかったかを争っても,お互い時間と費用がかかるだけである。診断書を『事故死』に書き変えて保険金満額が出るようにするから,どうか久保さんをなだめて欲しい。」などと言ったそうです。私は大野弁護士から,「どうしますか?」と尋ねられましたが,「伊藤医師の不正は許せない。監察医がしっかりやるべきことをやっていたなら,警察の隠蔽工作も不可能であったと思います。お金が目的でやっているのではありません。解剖をしなかったことを公式に認め,謝罪をするならば別ですが。」と伝えました。)。

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平成12年2月23日
横浜地方検察庁が,斎藤さん・伊藤医師らの不起訴をマスコミに発表しました。  

44
平成12年3月12日
テレビ局(TBS)から連絡があり,「『ニュースの森』を見たと言って,北原葬儀社(仮称)元社員の高橋さんから電話が入った。数回会って話を聞いたが,久保さんの話と一致しているので,久保さんが探している人だと思いますが,会いますか?」と聞かれましたので,私は,「お会いしたい。」とお願いしました。

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平成12年3月14日
高橋栄行氏を伴って,テレビ局の記者が自宅を訪ねて来ました。
 高橋氏は,自分が市民病院まで遺体を引き取りに行き,保土ヶ谷警察署まで搬送したこと,その後,保土ヶ谷警察署から遺体を伊藤医師の所まで運んだこと,伊藤医師は,遺体の解剖をせずに死因を心筋梗塞と告げたこと,その後,遺体が保土ヶ谷警察署に戻った後に遺族が遺体と対面したこと,ジープが印象的でこの日のことはよく覚えていることなどを話してくれました。
 私が遺体と対面する前に,既に伊藤医院に夫の遺体が行っていたと聞き,驚きと共に話がつながりました。斎藤さんから告げられていたことは,100パーセント嘘だったのです。

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平成12年7月10日
全労済を被告にした裁判で伊藤医師が証言をしました。その証言調書は既に提出済ですが,「解剖した久保氏の臓器を保存している。」と伊藤医師が証言したのを聞き,私はDNA鑑定で真実を明らかにすることができると思い,安心しました。  

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平成12年7月17日
時効を間際に控え,大野弁護士の協力の下,横浜地方裁判所にこの民事裁判を起こしました。多額の費用を必要とする裁判は,できれば避けたかったのですが,警察も伊藤医師も全く反省をせず,検察もそれを追及しようとしない現実に接し,真相解明を信じ,裁判を起こした次第です。  

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平成12年7月19日
生命保険・傷害保険・学生保険につき,「3年で時効となるから,それまでに保険金請求書だけは送付するように。」と保険会社の担当者から指示されていたため,私は,死体検案書は付けずに請求書だけを保険会社に提出しました。保険会社からは,「事故死か病死かは,死体検案書の記載が基本になります。」と言われ,現在は『保留』の扱いとなっています。

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平成14年2月9日
テレビ朝日の『ザ・スクープ』で,夫の事件のことが大きく報道されました。
 放映中にある視聴者から自宅に電話があり,「自分の夫と同じです。歯科医の夫も自損事故を起こし,フロントガラスはクモの巣状にひび割れていた。救急車に乗る時は自力で乗り込み,病院に搬送されたが,後日,病院で亡くなった。外傷はほとんど無く,『病死』と最初言われたが,自宅に帰ろうとした時,一人の医師の申し出により急遽,病理解剖をした結果,頭を打ったためにくも膜下出血をしており,また内臓は出血だらけでした。死因は,外面から判断できることではなく,病院の手当てが不適切で残念な結果となったが,誠実なこの医師の申し出により,病院に対する怒りの感情は消えました。病理解剖を申し出たこの医師がいなかったら,夫も『病死』で処理されていたところでした。今,テレビで事故車を見て,夫の車と同じ状態だと思って。」などと連絡を下さいました。
 この日のテレビ番組には,法医学者も出演され,法医学上の矛盾点を述べておられます。ビデオテープを証拠として提出しておりますので,是非ともご覧いただきたくお願い申し上げます。

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平成14年12月6日
村井,青地両警察官の証言の信憑性を検証するため,夫と同体型の方にお願いしてジープを検証した結果,両警察官の供述の矛盾点が明らかになりました。
 この点につきましては,追って,報告書を提出いたします。

第3 まとめ

  1. 以上,私が事件後につけてきたノートなどをもとに,起きた出来事を網羅的ではありませんが,時の流れに従って記しました。一連の流れによっても,被告らの不正は明らかであると確信します。
  2. 村井・青地両警察官の不適切極まりない対応により,夫は,目の前にある救命救急体制の整った横浜市民病院に搬送されることなく命を断たれました。村井・青地両警察官が夫を病院に搬送する手配を取ってくれていれば,夫が死亡することはありませんでした。本当に無念であります。
  3. その後,保土ヶ谷警察署は,伊藤医師と共謀し,村井・青地雨警察官の不始末を隠蔽しようと画策し,夫の遺体の解剖をしないまま,夫の死因につき「解剖有り」・「病死」・「死因:心筋梗塞」などと偽りの書類を作成しました。私は,DNA鑑定によって,この事実は完全に証明されたと考えています。警察と鑑察医との癒着は,決してあってはならぬことです。
  4. 私は,52歳になるまで警察を信じて疑わずに生きて来ました。そのような私にとって保土ヶ谷警察署が取った一連の対応は,どれだけ大きな衝撃であったのか,被告たちに想像がつくでしょうか。
     警察の不正を糾すべき検察庁が機能しない以上,真実の究明は,裁判所にお願いするほかありません。貴裁判所の厳正なるご判決を期待しております。
以 上


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